海外研修旅行について

現在、若い人の留学が減少しているという。情報環境が整備されている中で、日本にいながらにして世界の情報が簡単にリアルな映像も含めて接することができ、テロが世界各国でおきている中、危険を冒して海外に行く意味が薄れている。また安全で居心地のよい日本を離れて、苦労することは嫌だという若者も多いことであろう。

ただ、小田実や藤原新也はじめ、若い時に海外でしかも過酷な環境の中で過ごした人たちのその後の活躍をみると、若い時の経験・体験がその人達の思想の核になっており、いかに貴重なものかわかる

日本にはない美しい景色や異国情緒を楽しむ外国への観光旅行も意味がないわけではないが、それより海外の人々の実際の生活や文化に触れる旅行を若い時にすれば、かけがえのない体験になる。その意味で、若い時の留学体験は貴重な経験になるが、それは誰でもできるものではない。現在学校や大学が単なる観光旅行ではない、現地の生活や人々とふれる研修旅行を計画するのは、その為であろう。

上智大学では、夏休みによく教員がゼミの学生を引き連れて海外の研修旅行に出かけていた。私の場合そのような力量がなかったので、同僚の加藤幸次先生が海外にゼミ生を連れていく時に、私と私のゼミ生も一緒に同行させていただいたことがある。行先は、1度はアメリカ、もう一度は香港。どちらも加藤先生のつてで現地の学校の授業をいくつも見るという有意義なもので、現地の大学生との交流もあり、学生にとっては(また私にとっても)為になるものであった。(そのアメリカ旅行では、ワシントン、ニューヨーク、マディソン、オークレアと4都市を回り、安いホテルや大学の寮に泊まり、現地では加藤先生がマイクロバスを運転し、安上がりの旅行であったが、飛行機に乗り遅れそうになったり、スリリングなことがいくつかあった。香港旅行は、安いパック旅行で中抜けして学校見学に行った)

上智のOBのWさんが勤める名古屋の南山高等学校・中学校女子部では、ヨーロッパやアメリカだけでなく、アジアにも生徒を研修旅行で連れて行き、貴重な体験をさせている。「当たり前でない文化を体験したとき、自分自身での心の成長を実感できる」「世界に羽ばたく人材を育成できる」と教員は考え、アジアへの研究旅行を実施し、生徒たちに多大な影響を与えている。これは私立の中・高だからできることなのであろうか。他でも見習いたいものである。

大学での講義の記録(学習指導要領についてー学生のリアクション)

私の齢で大学の非常勤講師を務めている人は少なくなっているように思う。大学を退職して自由に使える時間を研究に費やしている先輩や同期さらに後輩はかなりいるが、大学の教壇に立っている人は少ない。それは、大学の非常勤も年齢の上限があるということによる場合も多いが、それ以上に年齢の離れた今の大学生に接するのは疲れるということがある。同期のNさんからも「非常勤講師は、講義を終わった後にかなり疲れを感じるようになったので辞めましたが、生活に張りと緊張感を持ち続けるという意味では、老化現象を遅らせたり、認知症予防にはいいのでしょうね」というメールをいただいた。ただ、自分の老化防止の為だけに教壇に立つのは、受講者の学生に申し訳ない。聴いてくれる学生がそれなりに得るものがあるように、現役時代以上に準備はしている。

ここ2回の敬愛大学教育こども学科の1年生を対象にした「教育課程論」の授業で、学生の書いたリアクションを掲載しておく。それぞれ、資料は数枚配り若干説明し、それから理解したことをリアクションに書いてもらったものだが(何人かに黒板にその回答を書いてもらい、補足を私がした)学生たちはそれなりに学んでくれたと思う。1回はこれまでの学習指導要領の変遷、もう一回は新しい学習指導要領の特質についてである。リアクションの質問内容は下記。

2019年後期 教育課程論 第2回 (9月27日)リアクション

1 前回のリアクションを読んでの感想 2 各時代の学習指導要領の特質(プリント参照、キーワードで) ①  1947,51 ⓶1958,60 ③1968~1970 ④     1977,78 ⑤1989 ⓺1998 ⑦2008,09  ⑧他の人のコメントをもらう

2019年後期 教育課程論 第3回 (10月4日)リアクション

1 前回のリアクションを読んでの感想 2 新しい(2017年)の学習指導要領の特質(新田参照、キーワードで)3 小学校教育の基本(小学校学習指導要領 総則 第1章 参照) 4 「生きる力「確かな学力」とは何か(文部科学省参照)5 学習指導要領改訂のキーワードをあげなさい(無藤隆参照)6 21世紀型能力(コンピテンシー)とは何か(松尾「教育課程・方法論」参照)7 結局、どのような学びが求められ、学校はどのような教育をすればいいのか? 8 他の人のコメントをもらう

彼岸花に思う

彼岸花に関してこのブログでもしばしば書いている(2012.10.3, 2013.9.25, 2014.9.11, 2016.921).それだけ私とって懐かしさを感じる花なのであろう。彼岸花には、その名称からして、亡くなられた人の思いが宿っているような気がする。彼岸花の傍を通る時は、身近で亡くなった人のことを思い、(手を合わせないにしても)祈るような気持ちになる。

私の齢になると親しかった人や昔お世話になった人がまだ生存しているのかわからない場合がある。相手もきっとそうであろう。若い時一番の親友と思っていたT君の消息も今はわからない。最後に会ったのは15年くらい前で、退職を前にして疲れている風に見えたが、その後その会社の役職名簿からも消え、今生きているかどうかも全くわからない。また最近不覚にも、昔大変お世話になった方が2年前に亡くなられているということ知り、愕然とした。多くの思い出があり。深い悲しみを感じる。穏やかな老後を過ごされたと知り、(ご無沙汰をお詫びしながら)少しほっとする。彼岸花に手を合わせ、ご冥福をお祈りする。

大学の授業料無償化、奨学金問題

高等教育や大学関係のことでは、ミクロな大学生の心理や意識やミドルの大学の授業のこと以上に、制度的なことや経済的なことは重要なことであろう。

具体的に経済的なことでいえば、大学の授業料の無償化や奨学金のことがある。その実際について私はあまり知らない。多くの人も同じであろう。今の大学の奨学金や授業料免除が740億円なのが、これから10%に増額される消費税を財源として7600億円になるという。そして無償になる大学の選定他、制度的な問題も多くあるという。

日本高等教育学会会長の小林雅之氏(東京大学名誉教授・桜美林大学教授)が、今日の毎日新聞で、この問題に関してわかりやすく解説している。下記にその記事を掲載しておく。

日本教育社会学会第71回大会から学んだこと(その2)

 先輩や同期また大学を退職した後輩から、「近頃の学会は面白くなくなった。出席する気がおこらない」という声をよく聞く。困ったことに(?)、浅学菲才の私は、まだ学会発表から学ぶことが多い。今回の日本教育社会学会の大会での発表を聞き、教えられたこと、気になったことを書き留めておきたい。

1 「不利な状況下にある若者」を実証的に研究するのに、「日本で育つ定住外国人」が日本の若者の先端事例として取り上げるという研究があり、その視点が面白いと思った。さらに高校卒業者を「早期離学者」とし、その先の高等教育を受けない「不利な状況下にある若者」に分類する視点が現代的と感じた。(山根麻衣「早期離学者はどのように大人になるのか」

2 同じ人に時期をずらして同じ質問をするパネル調査の報告がいくつか見られたが、その調査結果からは相関関係だけでなく因果関係(原因―結果)まで明らかにできるということであるが、それはどのような分析をするのであろうか。まだよくわからない。報告を検討したい。

3 佐藤香・山口泰史「若者の生活満足度の変化の様態とその規定要因」は、高卒の14年・15回に渡るパネル調査の分析で、データ蒐集の大変さ、分析の緻密さとデータの陰にあるものまでの考察(たとえば、続けて答えてくれる人はどのような人なのか)があり感心した。若者生活満足度を従属変数にして、それを規定する要因を多変量分析で探っている。(私たちも、大学生活満足を従属変数にして、それを規定する要因を多変量で探ったことがある。)ただ、(私たちの調査も含め)心理的な移ろいやすいものしかも個人的なものを、従属変数にするのは、どうなのだろうという疑問は感じた。

4 澤田稔「批判的教育学に基づく’未来カリキュラム‘に関する一考察」(課題研究「カリキュラムの社会学のこれから」)は、アップル門下の批判的教育学研究者の澤田氏が教育社会学のカリキュラム研究に対する評価を発表要旨に丁寧に書かいていて、読み応えがある。

5 各国の思考方法やその表現方法には国の文化が反映しているという渡邉雅子氏の報告は興味深かった(課題研究「カリキュラムの社会学のこれから」)。目的―手段の系列で結果から時間を逆向きに辿り原因を探るアメリカ。フランス革命の伝統があり、公権力の誤謬を正す論理性を身につけ、共和国の価値に合致した行動を至上とするフランス。状況的判断を重んじ、感情を共有し、共同対型能力を重視する日本。これらが各国のカリキュラムや実際の教育にも反映しているという。

6 山本雄二氏の「教育知と主体―歴史教科書への『慰安婦問題』記述を例に」(課題研究「カリキュラムの社会学のこれから」)は、従軍慰安婦に関する教科書の記述、高校教科書では1992年度検定版、中学校教科書では1995年度検定版から、日韓関係の変化に伴い大きく変わったことを、具体的な教科書の記述から明らかにしている。その内容の変化を、「個人主義的主観論」や「抽象的客観論」(M.バフチン)から「生きた言葉」「空白を埋める応答」「主体の召喚」への変化と解釈している(現在はまたもとに戻りつつあるが)。教育方法だけでなく、教科書の知識が学ぶもの相互性や主体性を喚起するアクティブなものかどうかを問う視点は、きわめてユニークで示唆的なものである。