授業の記録(敬愛大学教育こども学科1年生、教育課程論)

2019年 教育課程論第6回 (11月1日) 「地域の実態 学校と地域との連携」

1 第4回、第5回のリアクションを読んでの感想 2地域の実態、学校と地域との連携(p21、125)の箇所の要点を書き出しなさい。3学校と地域の協働の4タイプをあげなさい(プリント「地域協働型学校」参照)4あなたにとって、生まれ育った地域やふるさとはどのような場ですか。5唱歌「ふるさと」の4番を作りなさい(新聞記事「ふるさと」続く風景は)参照)6他の人のコメントをもらう

2019年 教育課程論第7回 (11月8日) 「主体的で対話的、深い学び」の例

1 「ふるさとの4番」の人気投票-優秀賞を2つ挙げなさい 2「ふるさと」をテーマにした教科横断的な授業を考えてください(例を参照) 3(現代的話題)「身の丈にあった」(生活や努力)について、どう思いますか(新聞記事参照) 4(写真を撮ったと思い)嫌いなものの絵を書いてください。その嫌いな理由も書いてください。5藤原新也「課外授業」(https://www.youtube.com/watch?v=O6xyn4Qv–A) を見た感想 6他の人のコメントをもらう

「身の丈」について

今日の朝日新聞朝刊(11月6日 朝刊、耕論)には、文部科学大臣の「身の丈」発言をめぐって、3名の研究者(竹内洋、斎藤孝、松岡亮二)がコメントしている。今の大学生はこの「身の丈」について、どのように考えているのであろうか。今週の授業で尋ねてみたい(下記のような議論の整理を提示して)

1 文部科学大臣の「身の丈」発言によって(別の要因もあるが)、来年の大学入試に英語の民間試験を使うことが延期された。「身の丈」にあった生活や努力をすることをどう考えたらよいか。2「身の丈」の逆は、自分の身分や能力を考えずに、上(「立身出世」)を目指すこと。このようなことが可能で、それが強く奨励された時代があった(明治初期、戦後最初、バブル期)。今は低成長期で、「身の丈」にあったキャリアが奨励される時代。また東日本大震災で身の回りのものを大切にしようという意識が生まれている。3 自分の置かれた身分(家庭環境や地域)と自分の能力は別で、前者の「身の丈」奨励は教育の機会均等に反する。後者の「身の丈」推奨はある程度肯定できるが、それが個人の努力にブレーキをかけることになってはならない。4 「身の丈」にあった生活は皆多かれ少なかれ送っている。自分の経済状況に合わせた家に住み、自動車や家電を購入し、旅行に行き、食費や衣料費も教育費も決めている。ただ「1点豪華主義」ということもあり、各自によって何にお金をかけるかはまちまちである。「身の丈」にあった生活は自分や家族が決めることであり、他人や政府から言われることではない。

紅葉を見に行く

今年は夏が暑く、秋になっても10月に大きな台風が2つも関東に上陸し、風や雨の大きな被害を各地にもたらしたので、紅葉どころではないというのが正直なところであろう。しかし逆にそのような時だからこそ、自然の恵みの紅葉を見に行きたいと思う。例年だと11月に入るともう紅葉は終わっているところが多いが、今年は気候の異変で今、紅葉の見頃になっているところも多い。

11月3日~4日の連休に、谷川岳の紅葉を見に行った。ロープウエイに乗らずに谷川岳ロープウエイ駅から1の倉沢まで歩き(50分)、その道と向かいの山の斜面の紅葉、下の谷(沢)の葉の色づきがきれいで、心が洗われた。水上高原プリンスホテルの11階でランチを食べたが、雰囲気も味もよく、ここからの眺めもゴルフ場の緑と山の紅葉がマッチして感動した。帰りに寄った宝川温泉に行く道沿いの紅葉も絶品。苗場や榛名湖にも足を延ばし、三国峠の紅葉や榛名神社の素朴さにも心打たれ、1泊2日のせわしない旅ながら、2箇所の温泉に入り、自然の恵み=紅葉を見ることができた幸運を感謝した。(下記の写真は一の倉沢の紅葉)

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英語の民間試験導入と教育の機会均等

教育は社会階層の再生産を行っているという指摘を教育社会学はよくする。そのメカニズムや実証的なデータでそれを明らかにすることが多いが、その事実を追認しているわけではない。社会階層と教育の隠れた関係(メカニズム)も暴露し、その現状を正そうとする。つまり、「教育基本法」の第3条、第4条にある「教育の機会均等」の原則を実現しようと、教育社会学の研究者も考えている。

その意味で、来年から文科省が実施しようとしている大学入試の英語民間試験は、教育の機会均等の観点から危ぶむ声は、高校現場からだけではなく、教育社会学の研究者からも上がっている。教育格差を助長し、階層の再生産を強めるのではないかと。(1029日の朝日新聞朝刊の記事の一部を転載しておく)

<小林雅之・桜美林大教授(教育社会学)は「身の丈発言は、家計に応じてという意味であれば、自助努力主義そのもの。国がすべきことと全く逆の発言であり、問題だ」と言う。教育基本法には「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」とある。小林教授は「国はもっと支援策を講じるべきだ。全国高校長協会が延期を求めるなど、試験そのものへの批判も強い。再検討した方がよい」と言う。大内裕和・中京大教授(教育社会学)も「経済格差と地域格差。今回の大学入試改革が内包する問題点を大臣自ら明らかにした」と話す。大内教授は萩生田氏が「あいつ予備校通っててずるいよな、というのと同じだと思う」と語った点を問題視。「予備校費用は完全な私費負担だが、英語民間試験は公的な制度に関わる私費負担。公の制度が格差を助長させている点が問題>。<「東大の中村高康教授は「制度的欠陥を抱えたままタイムリミットが来た。とにかく共通テストはいったん止めるべきだ」と訴えた。>

追記 今日(111日)の朝のNHKニュースによると来年度4月から実施予定の大学入試の為の英語の民間試験が延期になったとのこと。文部科学省の方針が、研究者や教育現場の声によって、大きく変更されたという意味では、このことだけでなく、教育政策に関して、とてもいい前例になると思う。教育政策が上意下達ではなく、下からの意見も考慮されることを示したもので、多くの人の励みになると思う。文部科学省の責任を問うというよりは、文部科学省の柔軟性を評価したい。

久しぶりの東京


東京駅に人を見送るついでがあったので、久しぶりの東京駅の丸の内側を少し散歩した。丸の内側が整備され、先に皇居(の門)が見え、広々としていて観光に適している場所になっているのに感心した(皇居参観は当日受付で毎日先着600名が見ることができる模様https://www.kunaicho.go.jp/event/sankan/sankaninfo.html)

東京大学教育学部70周年記念式典が東大の安田講堂であるというので、ついでに少し覗いた。安田講堂に入るのは、東大「紛争」の時の大河内総長と学生・院生との大衆団交以来なので、半世紀ぶりくらい。天井は高いが、意外と狭く、椅子はふわふわと座り心地はよい。祝辞を述べた東大総長、文科省の事務次官、教育学部長の話が、用意してきた原稿を淡々と読む感じで、歴史的な事実をきちんと押さえようという誠実さは感じられるが、話し方で人を惹きつけようという感じは全くなく、これが東大流なのかと思った。東大以外でこのような話し方では誰も話を聞いてくれないのではないかと思った。立派な「東京大学教育学部創設70周年記念誌」が発刊されていたが、現職教員のメッセージはあっても、これまでの教員(教授、准(助)教授、助教(手))名簿もなく、記録をきちんと残す記念誌にはなっていないことに不満を感じた。