NHKの夜ドラ「ひらやすみ」の魅力

テレビのドラマは、決まった曜日や時間に放映されるので、視聴すると毎日の生活を規則正しくするのに役立つ。さらにNHKのドラマは、なかなか質のいいものが多く、しかもコマーシャルがないので、落ち着いてみることができる。最近終わってしまったが、月曜から木曜日の夜10時45分からの「夜ドラ」の「ひらやすみ」が、心休まるるドラマで、終了しロスを感じる人が多いと聞く。私もその一人だが、アマゾンでもまとめて見ることができるので、2度見している。なぜ心が安らぐのか、WEBに載っている解説や感想の一部を、下記に転載する。

NHK夜ドラ「ひらやすみ」が4日で終了し、SNSに「ほのぼのラスト」「ゆるい生活が羨ましい」といった同作の味を改めてかみしめる声のほか、「しばらくロスるよぉ」といった喪失感、続編リクエストなどが視聴者から投稿された。/ 俳優をやめた主人公のヒロト(岡山天音)が、偶然親交を深めた一人暮らしの老女はなえ(根岸季衣)の死後に平屋を譲られる。そこに、美大入学のため上京したいとこのなつみ(森七菜)が同居。フリーターで釣り堀バイトのヒロトと、陽キャの美大生たちにどこかなじめず、モヤモヤするなつみの日常が、周辺人物もまじえて描かれた。 何気ない日々がゆる~く進んでいくドラマ。ヒロトの友人ヒデキが、家庭で子育てする妻に当たられ、仕事では同僚のモラハラ攻撃に遭って精神が壊れかかった終盤のエピソード以外、深刻な話や大きな事件、ロマンスも生じない。/ 森七菜、夜ドラ『ひらやすみ』で“こじらせ系女子”を熱演 「ぶすっと顔が可愛い」と反響続々.考察したくなるサスペンス要素もない。キュンキュンする恋愛要素もない。それでも視聴者の心を惹きつける。/  時代からとり残されてしまったものを愛する主人公の日常を丁寧に描いている。遠い未来ではなく、まずは目の前の幸せ、自分で作れる日々の喜びを追求することの大切さを描いた作品が、今の時代、特に求められているのではないかと感じる。/ 本作が描いたのは、手に届く範囲の幸せだ。「自由人」ヒロトに限らず、視聴者の誰もが大きく深呼吸して周りを見渡せば、広がっているかもしれない世界がそこにある。阿佐ヶ谷という街そのものが持っている魅力は、ヒロトが話しかける道端の猫、祭りの光景や、ヒロトが好きな歩道橋から見る景色、彼が走った月夜の路地など、そこにしかないものであると同時に、視聴者が自身にとっての特別な光景を重ねることができる余白がある光景とも言えるだろう。さらには季節を感じること。ヒロトは、突然降ってきた雨に「夏」を感じ、なつみと共に初物の栗やサンマで「秋」を喜ぶ。/「勝ち負けがすべての世界」に疲弊した、俳優だった頃のヒロトや、最終週における、会社で追い詰められ、心を病むヒデキのように、誰もが心を擦り減らし立ち止まってしまう可能性がある。 

(監督の言葉)、“決め台詞がない”。良いことを言おうとせず、私たちが日常的に使っている言葉を喋ってもらうようにしているので、そのことがのんびりとした空気感を作り出せているのかもしれません。原作自体が、世の中の価値観とは違うところで生きている人たちの物語で、また「身の回りの小さなことを大切にしながら生きていく」ということを示している内容に感じたので、そこは大事に描きたいなと。/“社会から見られる自分を大切にする”というよりは、“自分が見ている世界を大切にする”ということは意識して、ドラマを制作していますね。 

(https://www.nhk.jp/g/ts/KZ5YJ87J38/https://mdpr.jp/news/detail/4690310,

https://www.msn.com/ja-jp/entertainment)

 

SDGs・「持続可能な社会」と教育社会学

教育関係の学会は多数あるが、その学会によってテーマになることに違いが大分あるように思う.なかには同じテーマを扱っている場合もあるが、その扱い方や視点には違いがある。たとえば、いじめ問題を扱っている学会発表の部会の雰囲気が、教育実践に関わる学会と教育社会学会では全く違うことを経験したことがある。どちらの学会の雰囲気に馴染み違和感がないかは人の感受性や価値観によるが、その形成に大学時代の専攻(ゼミ等)が大きく寄与していることを感じる。

最近のテーマで一つ感じるのは、国連のSDGs(Sustainable Development Goals)や「持続可能な社会」の観点から教育のことを論じる観点が、教育社会学を専攻してきた私には何かしっくりこないことである。SDGsや「持続可能な社会」の観点はすごくいいことを言っているのに、なぜそれを白々しく感じてしまうのだろうと自問してしまう。このことを、研究仲間と話しあったことはないが、教育社会学会の学会発表のテーマや紀要の掲載の論文を見ても、SDGsや「持続可能な社会」が取り上げられることはほとんどないと思うので、教育社会学専攻者は同じような思いをしているのではないだろうか。

そこで、例によって生成AI(チャトGPT)に、このことを聞いてみた。今年1番の話題の漢字は「熊」ということなので、熊問題を取り上げ、SDGsや「持続可能な社会」の観点が生物多様性の尊重を唱えていることから、SDGsが熊問題をどのように考えているのか、私の観点も少し少し滑り込ませて、AIに聞いてみた。 その質問と回答は、添付をご覧いただきたい。SDGsを取り上げる教育現場でも、この熊問題も取り上げてほしいものである。

若い人の文字(活字)離れは進んでいるのか

若い人の文字(活字)離れや読書離れは進んでいるのであろうか。また文字を読む行為は、紙媒体で読むのと、デジタル機器(PC,タブレット、スマホ等)で読むのと何か違うのであろうか。またどちらがいいのであろうかか。例によってチャトGPTに聞いてみた。

回答の要約は下記  (詳細は、添付を参照のこと)

文字を“どう読むか”は目的・内容・自分の状況で柔軟に/「1日あたり何文字読んでいるか」の全国統計は存在しない。だが、本を読む人の割合は減っている。しかしスマホやネットなどを通じて文字情報に接する機会は依然高く、多くの人が「ほぼ毎日」文字を読んでいる。/  紙とデジタル、それぞれにメリット/デメリットがあるので、「内容・目的」に応じて使い分けるのが現実的かつ合理的。/ 若者の「活字本離れ」はあるが、「文字離れ」ではなく「読む手段の多様化・変化」と見たほうが現状に即している。

学問と政治の関係について

朝目覚めてまだうとうとしている時、昔読んだ本のことを思い出すことがある。今回、C・ダクラス・ラミス氏の宇宙船の話を思い出した。(『影の学問、窓の学問」晶文社が今すぐ見つからずうろ覚えの内容だが)、消滅する星の大人達が、大きな宇宙船に乗り他の星に移住することになった。しかしそれは何十年も続く退屈な旅で、よほど精神の強い大人でないと耐えられない。そこで大人たちは生まれてくる子どもたちに、世界はこの宇宙船だけから成り立ち外の世界はないと教え、この苦難を乗り越えようとした。しかし、ある時このことに疑いを持った子どもがいて、いろいろ調べ宇宙船には外があるという真実を発見し、歓喜し仲間に告げた。しかし、大人たちは彼を「気がおかしい子ども」として隔離したという話。この話は、政治と学問との関係として読める。世の中を平穏、平和に治める為に、国民に対して時に真実を隠し虚偽を伝えるのが政治である。それに対して学問は、いかなる時も真実を追究する(「窓の学問」)。

内田樹は、最近のブログに次のように書いている。―<研究者というのは、「知らないこと」を知りたいと願い、「理解できないこと」に遭遇すると心が震え、私見を伝えるために道行く人の袖をつかんで「お願いだからわかって」と懇請するような人間のことだからである。/ 理に合わないことに遭うと「アラーム」が鳴動する。「理に合わない」のは、出会ったものそのものが不条理である場合もあるし、私自身の知的枠組みが狭くて、その対象を受け止め切れない場合もある。後者なら、私の知的枠組みをいった解体して、再構築する必要がある。研究者というのはこの作業を繰り返す生き物である。だから「理に合わないこと」に対する感受性はつねに高く設定されている。誰より先に「理に合わないこと」に感応するのが仕事である。「炭鉱のカナリア」のようなものである。/ カナリアはガスが発生するとまず死ぬ。だとすると、研究者は世の中に毒が充満し始めた時に「まず死んでみせる」ことが仕事なのかも知れない。>(内田樹 「研究者とカナリア」ブログ2025-12-07 、http://blog.tatsuru.com

私も研究者としては、いかなる時も真実を追い求めるという姿勢が大事と思うが、一方で、今教育の世界で「アクティブ・ラーニング」が言われ、持っている知識や技術を世にいかに生かしていくのかということが問われている。そうなると、真実を暴露するだけでは終わらないように思う。政治的に真実を「隠す」という考えも生まれざるを得ない時や               状況もあるのではないか。そのような時、研究者はどうするのか。

共感の論理

名古屋大学の渡邉雅子先生より、最新のご著素(『共感の論理―日本から始まる教育革命」(岩波新書、2025)をお送りいただいた。その内容に感銘を受け、その紹介兼ねて、「内外教育」の「ひとこと」に、下記のような拙い短文を書いた。渡邉先生のご著書の趣旨ははずしてないと思うが、いつものことながら、最後は話題が別の方向に向かい、まとまりのない文となってしまった。原著を読むことをお勧めする。

近代化の行き詰まりと日本文化の再考    武内 清

明治以来欧米諸国をモデルにしてきた日本の社会や教育あり方が再考を迫られている。今欧米の近代化の矛盾がさまざま露呈している。伝統的な日本文化や日本人の特質も再評価されている。/ 稲作中心の農耕民族の日本人は、近隣と同じ時期に稲刈りをすることで、自然災害を免れ収穫を確保してきた。それで日本人には周囲の集団へ同調する習性がある。それは自己主張の強い個人主義ではなく、自分が属する集団への同調や調和を第一に考える間人主義(浜口恵俊)である。/ 西欧の個人主義は、本来個人の自由と同時に他者の自由も尊重するものであるが、自己の利益のみを追求し他者を手段視する利己主義に陥る傾向がある。日本人の集団への同調傾向は、封建的な家父長制度、男女の不平等、軍国主義への追従を生んできた。このように個人主義も集団同調主義も両義的である。/ 日本は明治以降の近代化の過程で、身分によらない地位獲得競争が生じ、自己本位の意識が芽生え、周囲への共感や同調は薄れていった。/ 渡邉雅子名古屋大学教授は、西欧の個人主義は他者の事情や求めを無視し勝ちであるのに対して、日本の共感の論理は「万人の中にある人間性(仏性)」を根拠にして普遍性をもつとしている。「誰かが苦しんだり悲しんだりしているのを見た時、その人の状況に身を置き、自分ごととして苦しみや悲しみを感じて手を差し伸べる」共感重視の日本的な心性や教育(特に作文教育)は、利他主義を育成できるとしている(『共感の論理―日本から始まる教育革命」(岩波新書、2025)。/日本人の共感性や利他主義は、日本の学校文化や学級文化の中でも養われてきた。学校行事や学級での授業や協働的学びで、仲間や集団への共感性が養われてきた。学校や学級の風土や生徒文化への同調から児童生徒が受ける影響も大きい。勉強文化が優位の進学校での進学実績は高い。いじめを許さない学級の風土のもとではいじめは起こらない。共感の論理を普及し世界の平和もはかりたい。(内外教育7289号 「ひとこと」 2025年11月2日)