秋の午前の海浜公園

今日(11月1日)は、昨日の肌寒さと違い、秋晴れのよい天気。
そうなると、公園にソフィーを連れて行きたくなる。近くの稲毛海浜公園へ。
午前中の日の光は、さわやかでいい。秋の花を楽しみ、ソフィーにはいい出会いもあった。

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ハロウイーンを楽しむ

昨日(10月31日)は、ハロウイーン。何の日なのかよくよくわからないが、子どもたちが仮想して近所を回ると、お菓子がもらえる日という印象が私の中にある(これは、以前に家族でアメリカに滞在した時、子ども達が経験したことによる)。
とにかく日本的に楽しめばいいのではないか。娘の家族は、国際的な交流を目的とした子どもたちのハロウイーンパティーが近くであり、それに参加して、楽しんできたようである。
私は、妹たちが市原[ちはら台]で、フリーマーケトに出店するというので、販売の手伝いはできなかったが、ハロウイーンのお菓子を用意し、通りかかった子どもたちに持っていってもらった。販売には全く寄与しなかったが。
天使人語に、ハロウイーンの由来が書かれていたので、転載する。

(天声人語)ハロウィーン日本流 (11月1日)
 アイルランドの言い伝えでは妖精や幽霊、魔物はありふれた存在である。この国の詩人イエーツは、そんな不思議な者たちとの付き合い方をこう説いた。両手を広げて迎えよう。消え失せろ、などと言わずにもてなせば、「それほど悪い目にあわないのではないだろうか」(「ケルトの薄明」井村君江訳)▼異界を抵抗なく受け入れログイン前の続きる文化に、ハロウィーンの源流がある。死者が帰って来ると言われる収穫期、幽霊に変装して仲間のふりをし、食べ物を供えた。19世紀に移民を通じて米国に伝わり、盛んになった▼それがここ数年、日本でにわかに広がっている。今年の市場規模はバレンタインに迫るとも伝えられる。不気味に笑うカボチャの橙色(だいだいいろ)は、すっかり季節の色になった▼もっとも楽しみ方は本場とやや違うようだ。欧米では主に子供の行事で、近所を歩いてお菓子をもらう。加えて日本流は、大人もはしゃぐ▼宗教社会学者の石井研士(けんじ)さんによると、戦後定着した行事には社会の変化が映し出されている。クリスマスは、台頭した核家族が幸せを確かめる機会になった。バレンタインの流行は、女性が消費の担い手として現れたのと軌を一にする。ハロウィーンはどうだろう▼本番だった昨日、都内で目にしたのは、さながら路上仮装大会だった。魔物やヒーローに扮した彼らが言うには、自分ではない何者かになれるし、変身した者どうしの一体感が得られる。お手軽に使える魔法の力。それを時代が欲しているのだろうか。

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価値志向による人の分類

これは朝、寝ぼけまなこで、ぼんやり考えたことであるが、人の価値志向により、人が4種に分けられるのではないかと思った。
分類の第1の軸は、「もの志向」か「人間志向」か(理系か文系かと言ってもよい)
分離の第2に軸は、業績重視か属性重視か(外面評価重視か内面充重視かと言ってもよい)
この2つの分類軸を交差させることにより4つの象限ができる。これが人の分類になる。
お金人間(もの志向・業績重視)、地位人間(人間志向・業績重視)、 
愛情人間(人間志向・属性重視)、趣味人間(もの志向、属性重視)
この4つは、人間の類型でもあり、また価値あるものとして人が求めるものの分類でもある。(T.パーソンズのAGILに対応している)。
どれか一つというよりは、人により求める比重が違うと考えてもよい。(たとえば、私の場合は、最初から2-2-4-2かもしれない。若い時はもう少し最初の2つが多かったかもしれない)
これを、学生に話したら、あまり感心されず、「当たり前でしょう」といった反応であった。やはり、寝ぼけまなこで考えたことは、ダメなのであろうか。

潮木守一先生のエッセィ

 私が学生時代に最初に教育社会学を教わったのは潮木守一先生である。先生はお元気で、今も次々と本を書かれている。最近に送っていただいたエッセィを、先生のご了解を得て、掲載させていただく。

A 本の周辺「雑学の登場」
はるか昔の少年時代の記憶である。地方小都市では本屋にもそれぞれ格があった。格の高い書店、格の低い書店、その中間の書店。その違いは少年の目にもすぐ分かった。あまり格の高くない書店は、小さな子供向けのぺカペカした本を売っていた。教科書販売をメインにしている書店の店頭では、およそ無愛想な店主がいつも面白くもないといった顔で座っていた。その書店は教科書販売の時だけで、年間の利益をあらかた上げてしまい、後は売れても売れなくてもいいのだそうだ。それが店主を無愛想にさせたのだというもっぱらの話だった。
それに対して、その町一番の格式を誇る書店では、風格を備えた店主が堂々と店頭に控え、店の気品を発揮していた。この書店がほかの書店と違う点は、店頭の一番目につくところに、難しげなタイトルの哲学書を並べていた点だった。それはほかの書店には並ぶことのない種類の本だった。今にして思えば、そのような難しい本を買う客はそう多くはなかったことだろう。けれどもほかの書店が扱わない難解な専門書を扱っているということが、その店の格を醸し出していた。
最近我が家の近くの駅ビルの中に書店ができたというので、様子を見に行った。最近の書店のレイアウトはどこもそうだが、まず店頭には雑誌類とかタレント本とか漫画を並べていた。しばらく店内を物色しているうちに、書店の一番奥まったところに「雑学」という名札のついた小さなコーナーがあることを発見した。「雑学」とはどういう本のことなのか覗きにいったところ、そこに人文書、哲学書、思想関係の本が並んでいた。かつては書店の格を誇示するために店頭に並んでいた本が、今や書店の一番奥の目立たない棚に、しかたなく並べられていた。これが「世間相場」というものなのであろう。あまり長生きをすると、見たくない光景に付き合わされることになる。その時、改めて思い知らされた。
 
B「本の周辺」
 初めて自分の小遣いで本を買ったのは、中学生の時だった。もともと我が家にあった親の買った本ではなく、はじめて「自分で買い求めた本」を手に入れた時は、単純にうれしかった。それから80歳になった今日まで、さまざまな本を買い集めてきた。人生のある時期までは、一冊一冊「蔵書」が増えてゆくのが、理屈抜きでうれしかった。やがて部屋を改造し書棚を増やし、いかにも「籠城」を気取るかごとく、身辺を本で囲むのが自慢だった。
ところがいつ頃からか、目指す本を探し出すのにやたらと時間がかかるようになった。足の踏み場もない部屋をあちこち探しても目指す本が見つからない。それ以前に本の置き場を作り出すのに苦労するようになった。床の上に山積みで本を置くと、もう下の方の本は取り出せなくなる。無精をして下から「えいや」と引き出そうとすると、本の山が崩れ、それが隣の山を崩し、部屋中が収拾がつかなくなる。ましてやダンボールに仕舞い込んでしまうと、その本はあきらめるしかない。ダンボールの側面にいくら丹念に書名を書き込んでもダメなものはダメだった。
その頃からデジタル化が話題となり始めた。そしてアメリカの有力大学が歴史上残されている書籍をすべてデジタル化するという話まで飛び込んできた。この話を聞いてしめしめと思った。デジタル情報だったら検索が楽で、目指す文献を探し出すのに苦労しないで済む。世の中の本がすべてデジタル化されたら、さぞかしすっきりすることだろうと、このアメリカのプロジェクトを心密かに応援していた。
ところが現時点ではこのプロジェクトも完成するまでは時間がかかるらしい。そうこうするうちに、こちらは80歳の大台に乗り、最近では目が悪くなった。こうなるといくらデジタル化されても、使いようがない。とうとうデジタル情報の恩恵に浴することなく、寿命が尽きるらしい。やはり生まれた時が悪かったと今では観念することにしている。