多様性、多様な見方について

敬愛大学 教育課程論(2015年12月16日)講義内容 

 テーマ 多様性、多様な見方について

 趣旨  教育において、画一的な見方ではなく、多様な見方が重要なことを、そのいくつかの具体例をあげて説明する。

1 先週配布したプリントの説明
 ①松尾知明氏によれば、多文化教育とは、ⅰサラダボールやオーケストラのようなもの。ⅱ少数で権力がなく弱者のマイノリティーの視点に立つ。ⅲ旅行アプローチののような表面的なものではだめ、もっと実際の生活に則したもの。
 ② 佐藤郡衛氏によれば、単一文化的アプローチ、比較文化的アプローチ、異文化間教育的アプローチの3つがあり、多文化教育は第3のものであり、異質なものが入ってこそ、自分達も豊かになると考える。

2 すぐれたもの(文章、作品等)には次の3要素があると思う。
① 全体として優れていて、多くの人の心を掴む(普遍性をもち且つ時代の空気も反映している。)
② 主張は骨太で、はっきりしていて明確で、理解し易い。
③ 同時に、それは主張の押しつけではなく、多様な解釈、批判も許容するスケールの大きいものである。

3 宮崎駿の映画が、人気があるのは、上の3つの条件を満たしているからであろう。宮崎駿論が多く出されているのも、多様な解釈が可能だからである。村上春樹の作品(小説、随筆)の魅力も同様の特質から来ている。井上陽水の歌「傘がない」が一世を風靡したのも、大学紛争後の時代精神を的確に掴み、多様な解釈を許容したからである。

4 フィスクの説明によると、マドンナの「ライク・ア・バージン」の歌詞には、4つの語呂合わせ(宗教的愛、セクシュアリティー、ロマンティック・ラブ、都会で生存競争)があり、読者なりの意味の読み取りができるようなものになっている。マドンナの音楽は、その時代の空気を反映しているだけでなく、多様な解釈を許容するスケールの大きなものである。

5 多文化教育で、大事なことは、多様な見方を理解し、許容することである。その際に、バンクスの「転換アプローチ」は有効な方法である。他国や他者の立場から,同じ事象を見てみる。第2次世界大戦や広島・長崎への原爆投下を、日本人の立場からだけ見るのではなく、アメリカ人、日系アメリカ人、中国人、韓国人(朝鮮)の立場から考える。

6「転換アプローチ」による「原爆教育」は、日米で行われている(過去のNHK番組を視聴)。

7 藤原新也の「世にも不思議なマクドナルド」も、「人種差別はよくない」という一般的な視点や差別される日本人の立場からだけでなく、何故アメリカ人がアジア人を差別するのかということを、アメリカの歴史から理解し、その上で、人種差別の問題を多様に深く考える必要があるであろう。

本日の配布資料 IMG_20151216_0001

当日の学生のリアクション(一部抜粋)

・優れたものの3要素が一番印象に残った。したがって、私もこの3要素を用いてレポートや会話等に日常生活を送ってみようと思った。
・国籍が同じだと他者でもある程度理解することができるが、国籍が違うと見知らぬ人への理解が一気に低くなる。
・他者をどこまで理解できるかについて、国の違いよりも自分の友人かどうかの方が重要であることを知り、なんだか嬉しくなった。実際に中国に行き、中国人の友人と会話したりしていると、まるで国籍が異なるのを忘れていたからだ。
・バンクスの考え(特に転換アプロ―チ)で他の国の文化の理解を深めることはとても重要である
・ビデオを見て、日本のことをちゃんとアメリカで授業で取り上げてくれているのはびっくりした。
・原爆がなぜ作られ、なぜ投下されたかは考えたことがなかった。
・アメリカからすれば戦争をやめさせるには原爆を落とすしか方法がなかったという人もいる。立場が違うだけで180度考えが変わってしまうのだ。
・多様性、多様な見方についての講義から、多文化教育を行ううえでは、一方からだけでなく視野を広く持ち、幅広い方向からの見方をすることが大切であるということがわかった。人種差別問題や戦争などの理解の仕方は国によって様々であり、その国のいいように解釈しているだけだと思った。何が悪くて何が正しいなどということではなく、現状が何なのかをきちんと伝えるべきだと考える。また原爆の映像を見て、唯一被爆国である日本では、どのように教育していくかが戦後の課題であること知り、難しい問題だと思った。私たちは原爆に対して残酷さや悲惨さなどのイメージが強いが、他方では戦争を終わらせる手段であったと考えられている。感情だけでなく、実態を理解することが大切であるのだと思った。ただ、原爆の被害を受け、苦しんだ人がいるのだということはきちんと伝えていかなくてはならない事実である。
・自分の国の教科書だけの教育ではなく、お互いの国の考えを聞いて客観的に見て自分の考えをまとめるのがよいと思った。
・私は決して戦争をすることに賛成はしない。どんな理由であれ、人殺しは人殺し.自国を守る術は戦争をしなくてもいくらでもあるはずだ。

上のリアクションに表れているように、私の授業としては珍しく(?)、学生の
理解がすすんだようだ。これは、同じテーマ(多文化教育)を3回も繰り返し扱ったこと、配布資料がよかったこと、最後に見せたNHKの多文化的な視点からの日米の原爆教育のビデオが優れていたことによるのであろう。それにしても、学生諸君が、こちらのわかってほしいポイントを的確に掴み、リアクションでそれをはっきり表明してくれるのは、教師冥利につきる。敬愛の学生もなかなか文章力がある。

人種差別について

先々週に私の敬愛の授業で外部講師の方に、講義(テーマは「国際理解教育」)をお願いした折、人種差別のことにも言及があった。
講師の方が、イギリスに滞在中に、バーガーキングでハンバーガー注文した折、1回目はアフリカン(黒人)の店員から人種差別的扱いを受けたと感じたが、2回目正装で訪れると同じ店員から丁寧な扱いを受け、人種差別ではなく、服装の問題だったという話をされた。
その話から、私は以前に読んだ藤原新也の「世にも不思議なマクドナルド」(『アメリカ』、1990収録)のエピソードを思い出した。
藤原新也がアメリカの白人地区のマクドナルドに入っていくと、「よそ者が入って来た」という西部劇のワンシーンのような冷たい視線を周囲から感じ、わずかに黒人の血の入っている白人の女店員から、何度も注文を聞き返されるという差別的な扱いを受けたというエピソードを書いている。藤原新也は、「きのうアフリカからやってきたのかな、あんた」という、差別語ぎりぎりの言葉を女店員に返し、報復している。
「街のカラーを私が乱している」「アメリカは後から入って来たヒスパニックやアジア系の人達を根本のところは歓迎していない」という興味深い考察をしている。

私も昔WISCONSINの白人地区のレストランに家族で入った時、中にいた全員からじろりと冷たい目で見られるという同じような体験をしたことがある。また、フロリダのレストランで、隣の席の白人家族が、「日本人は真珠湾攻撃という卑怯なことをしたのだから原爆で懲らしめて当然」というような話を私達に聞こえるように話しているのを聞き、いたたまれず席をたったことがある。

そこで、先週の授業では、藤原新也の文章の主要な部分を抜粋して学生読んでもらい、感想を求めた。
学生の感想は、「アメリカでそのような差別があるとは知らなかった」「アメリカに行きたくなくなった」というものが多かった。
授業者としては、もう少し人種差別の深いところを読み取ってほしかったのだが。

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教師の努力

J大学で非常勤で教職科目を教えているK先生から、今年も私語は全く見られず、90名近い学生が熱心に受講しているが、先週の授業でビデオを見せた時、学生が2人並んでガバッと寝ているという状況がありとても驚いた、というメールをいただいた。
K先生の授業は準備も万端で、学生にも定評があり、このような学生が少数でも出るというのはあまりないことで、先生も驚かれたたことであろう。
「特にその時には注意はしていませんが、後で考えて、教職の科目ですからそのまま放置するのはまずいかなあと考えています。もちろん一般的な注意になると思いますが、」と先生の対応は丁寧であり、教えられることが多い。
一方、私の授業と言えば、準備にかける時間や意気込みは、K先生比べものにならないほど短く低いとはいえ、自分では興味深いと思う内容の講義やビデオを見せても、私語はあるし、ビデオが映っている時間、学生が顔をあげている割合は半分に満たない。(ただ、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」のビデオの時は9割方見ていた)。
7・5・3という言葉があったように思う。それは児童・生徒が学習内容を理解する程度で、小学生7割、中学生3割、高校生3割というものである。
児童・生徒・学生が、授業に打ち込む(聞いている)割合はどの程度なのであろうか。特に、大学の授業はどうなのであろうか。もちろん、教師による、学生によるということであろうが、平均するとどの程度になるのであろうか。
K先生はJ大学(偏差値60以上)で、多くの学生が自分の授業にひきつけられることを期待し、事実それに近い授業を展開されているわけであるが、私の場合は、人(学生)それぞれであるし、せいぜい20%(多くて30%)くらいの学生が興味をもってくれればいいやくらいの気持ちで授業をしているような気がする。この点は、K先生を見習い、私の努力が必要な気がする。
K先生より「『3/4の法則』というのがあります。興味を持たせる、理解をさせるなどの目標として、1/4より2/4、2/4より3/4を目指しますが、3/4くらいが限度ではないかということです。」ということを聞いている。
学生の4分の3までは、教師の努力によって、関心や理解に持って行くことができるというのである。このような心意気こそ、教師が誰もが持たねばならないことであろう。

国語力の不足

今日(11日)は南新宿のホテルで開かれた会合で、「国語教育の方法とその歴史」という興味深い話を聞く機会があった。
内容は、国語の授業で、一つの文章(物語)を、どのように解釈していくかが、教科調査官や教科書編集者の見方の押し付けられる場合がある、ということを、有名な 教材「冬景色」への芦田恵之助の解釈や、「海の命」への解釈の例で、それを示したものであった。
その趣旨は、国語の文章の解釈は、一つの見方の上からの押し付けであってはならない、文章やその構成を精読し、そこから厳密に解釈していくべきものというようなことであったように思う。
上からの解釈の押しつけは論外だが、解釈は、「物語」としてテキストのみから解釈する場合と、作者の経歴や他の著作から全体的に解釈する読みがあるようにも思った(日本語の文章はあいまいであるし、作者も論理一貫的に書いていない場合がある)
また、「国語教育と英語教育はどのように違うのか」という議論を聞きながら、英語もそうだが、「自分はいつも国語は苦手で、成績も悪かったのは何故だろうか」と考えさせられた。

南新宿のイルミネーションと人を見ながら帰宅した。やはり、新宿は東京(丸の内)とは何かが違う。しかし、自分の国語力が不足で、その違いを適切に表現できない.

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学生の個性と才能

今日(9日)の敬愛大学の2年ゼミでは、各自の発表の第1回目。テーマは自由で、一人の持ち時間は20〜30分程度と言ってある。
テーマが自由というのは学生には半信半疑で、子どもや教育に関係ないことで本当にいいのかと、恐る恐る発表を始める。
ただ、その内容から、学生の素顔がわかり、とても面白い。普段の教育や子どもに関するテキストを取り上げ、議論する時には見られなかった一面がみられる。

今日は男子学生3人の発表があった。「何でも質問コーナー」と題して、ゼミ生からだされる質問に的確に答えていくビックなN君、そして、タバコ依存性からの脱出方法を他の依存性との比較で、自分の体験もまじえて鮮やかに分析するクールなO君の発表も見事で興味深いものであったが、それ以上に、男の髪形とその矯正法を鮮やかに実演する元カリスマ美容師志望のK君の手腕に見惚れた。

男は顔の作りは皆大して変わらない。したがって髪型が勝負の決め手。頭と顔の全体をひし形にすればいい。それにはアイロンを使い、多くの髪の先を鼻の向きに向けていく。てっぺんや前髪や側面はまた別の手法。これは、実際二人の男子学生に施すと、みるみる髪にボリームができ、おしゃれで、男前になっていく。これで女の子にもてること間違いない。

普段、(私の)授業をつまらなそうな顔をして聞いている学生達も、一人ひとりが個性と才能をもっているのだと、改めて感心した次第。

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