子猫再び

2か月ほど前(7月7日)に同じようなことを書いたが、近所でまた4匹の子猫(野良猫)が生まれたようだ。近所の人は、野良猫を捕まえては避妊手術の為に動物保護センターや獣医のところに連れているが、追いつかない。 子猫に近づくと親猫に威嚇される。子猫は可愛いいが、野良猫の為、段々猫相が険しくなる。近所でいろいろな問題も起きている。猫の出入りするところは、異臭が漂う。餌をあげている猫好きの家と猫嫌いの家が何となくよそよそしくなるという事態も生じている。「あなたたち、これからどうするの?}(子猫に聞いても仕方がないか)

水沼さんから仙台も同じような事情の様子であることをお知らせいただいた。

<知人に町内会長をしている人がいて、野良猫(仙台弁ではのっつぉねご)をめぐる住民のトラブル、ゴミ対策などが大変なようです。猫は多産系の動物で年に3~4回出産するそうです。避妊ボランティアが仙台にもたくさんいて、市からの補助を受け、猫を捕獲しては動物病院に送り込んでいるようです>(水沼>

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SEガーデン

放送大学東京文京学習センターの客員教授をさせていただいていた時代(20010年4月〜2015年3月)に教育に関する自主ゼミを月2回開催していた。その自主ゼミが、私の退職後もサークル(SEガーデン=教育社会学の庭)として存続し、だいたい月1回(第2木曜、15時30分〜18時)、東京文京学習センターの演習室で開かれている。 昨日(8日)は、永井聖二「人間形成と教育」(高野良子・武内清編『教育の基礎と展開』学文社、2015、第1章)がテキストで、参加者は8名で、活発な議論が展開された。 永井先生(東京成徳大学教授、日本子ども社会学会会長)の書かれた章は、簡潔、明快に、教育の本質と特質、その社会的特質について説明されており、そこからいろいろ議論が発展した。 特に、野生児の研究(最近も犬に育てられた女の子がいるという?)、育児の国際比較(スポック博士の育児書の内容が日本の母子手帳に記載された時代がある等)、消費社会化(純真無垢ではない子ども、ポケモンgo)について、現代的な問題が、皆の経験をもとに、議論された。 放送大学には、多様な年齢、経歴、関心の方が集まり、気楽に議論、交流できるので楽しい. 次回以降も、このテキストを使った議論が続く。

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学びの共同体

戦後大学に講座ができた「教育社会学」は、既存の教育学があまり扱っていない学校教育の周辺のこと(地域社会や階層)を主に扱ってきたので、学校教育の中核部分であるカリキュラム(教育内容)や教育方法に関しては疎い(苦手)ところがある。
しかし教育社会学が学問として確立し世間でも認められるようになった今、教育社会学も学校教育の中核部分に切り込むことも必要である。(先に学校社会学研究会で報告のあった名越氏はじめ、何人かの教育社会学者は、それをはじめている)
さしあたり、私は教育学で定評のある本を読むことからはじめよう。たまたま手元にあった佐藤学『教師たちの挑戦―授業を創る、学びが変わる』(小学館、2003年)を読んでみる。佐藤教授はとても含蓄のあることを書かれている。そのいくつかを抜き出してみよう。

「静かな革命は、学びの様式においては、座学の学びから活動的な学びへ、個人的な学びから共同的な学びへ、獲得し記憶し定着する学びから探求し反省し表現する学びへの転換として表現され、授業の様式においては、伝達し説明し評価する授業から触発し交流し共有する授業への転換として表現される」(7頁)
「学びとはテキスト(対象世界)との出会いと対話とであり、教室の仲間との出会いと対話であり、自己との対話の3つで対話的実践によって構成されるのであり、「活動的で協同的で反省的な学び」として遂行される。」(13頁)
「ほとんどの教師が魅了されている授業は、しっとりとした関わりの中でつぶやきや声を聴き合い、一人ひとりの細やかな思考をていねいに擦り合わせる授業である。これまで喝采を浴びてきた授業が、にぎやかな劇的な動きのある派手な授業であったのに対して、今の教師たちの心を捉えているのは、繊細な響き合いによってていねいに進められる、静かで地味な授業である」(29頁)
「授業を創造する教師の力量において、専門的な知識や授業の経験はその3割に過ぎない。残りの7割は、子ども一人ひとりの思考や感情をどれだけ尊重し、一人ひとりの子どもの隠れた可能性をどれだけ引き出せるかにある」(62頁)
「子どもが求めているのは、落ち着いて学び、安心して自分の可能性を開くことのできる教室である」(45頁)(『教師たちの挑戦―授業を創る、学びが変わる』(小学館、2003年)

この本は13年前に出版されていて、アクティブ ラーニングという言葉は出てこないが、内容的には、アクティブ ラーニングへの転換が提唱されている。
佐藤教授は、派手に活動する授業ではなく、静かに深く学ぶ授業を提唱している。本の中に「響き合う」「柔らかな」「しっとり」という言葉が、頻繁に出てくる。佐藤教授の「学びの共同体」論は、机上のものではなく、教授が1万近い教室を訪問・観察して出てきたもので、説得力を持つ。
教育社会学の立場からすると、データの裏付けやその論の社会的意味もほしいと感じた。教師の属性による教育方法の違い、教師の教育実践と子ども反応との関係、時代的背景と教育に対する社会的要請など。
2016年の今は、教育学ではどのような学びが必要なものと提唱されているのであろうか。教育社会学の立場から、批判的にも考えていきたい。

リメディアル教育に関する議論(その3)

京都三大学教養教育研究・推進機構の児玉英明さんより、先の小島さんの意見に対して、ご意見をいただいた。児玉さんのリメディアル教育学会の発表レジメ(添付)を添えて、転載させていただく。

<小島先生は「私もリメディアル教育には賛成ですが、個別的には大学教員も取り組んでいると思います。すわわち、学生のレベルに合わせて教え、単位を出しているということです。それを組織的にやるかどうかということは、大学のプライドもあり、コンセンサスを得るのは難しいと思います。」と述べています。この記述にリメディアル教育の根本的な問題があります。つまり、大学には「個別的に」取り組んでいる教員はいても、「組織的に」取り組んでいる大学はないという点です。どこまで行っても、個人的な取組であり、それ故に教員によって対応が分かれ、学生が不利益を被っている可能性があります。教職員一人ひとりのレベルでは、基礎学力に不安を抱える学生の学習支援に関心を持っている者は多いです。しかし、それが組織的な議論に発展するかというと学内ではなかなか難しいという現状があります。このようなディレンマは、なぜ発生するのでしょうか。私がまとめた論考を添付します。(児玉英明)>

2015リメディアル教育学会(児玉英明)

 

リメディアル教育に関する議論(その2-小島・鷲北往復書簡?)

私のこのサイトで、いろいろ議論ができるのは、楽しい。
先の鷲北さんと私、そして小島さんのリメディアル教育に関する討論を読んで、「なかなか興味深い」という感想を読んだ方からいただいている。
さらに、本日(6日)小島さんの論へ鷲北さんよりコメントをいただいた。一部を抜粋して掲載させていただく。

鷲北さんからのコメント(9月6日)
まず一点目です
<私もリメディアル教育には賛成ですが、個別的には大学教員も取り組んでいると思います。すわわち、学生のレベルに合わせて教え、単位を出しているということです>(小島)。
●本当に学生が分かる講義をして、その上で学生と向き合って単位を付与されている場合は良いのです。これは、L大学で多々あったのですが、授業は上位者だけがわかればいいわかんないやつは出席足りていれば単位は出すから、黙って座っていろ。というタイプの先生です。これはS大学でも、みられます。学生と向き合っているという先生ばかりでなく、学生を見下して適当に単位出すタイプの先生を、私は問題にしています。どんなに難しい学問も、基本の上に成り立っています。公文式ドリルや、中学校のものをやることがリメディアル教育なのではなく、自分の専門を理解してもらうために、彼らがつまずいているところまで遡って引き上げてあげる教育。こう考えています。
過去にL大の法律科目で、「公共の福祉が何回読んでも分からない」といった学生がいました。法律の先生は「公共の福祉は公共の福祉以外の何物でもない」と言って、相手にしてくれません。私は、その学生には「みんな好きな事はやっていいという権利は持っているわけよ、だけどさ、みんなが静かに勉強したいと思っている図書館で、「俺は叫びたい、叫ぶのが自由権だああ」と言って叫んだら、周りに迷惑かけるでしょ? ぶっちゃけて言うと<公共の福祉に反さない限り>というのは<人様に迷惑をかけない限り>って感覚に近いわけよ。」このような説明をしたら、よく分かったと言ってくれました。小学生でも、分かるような説明をしてあげること。これが要求されると思います。
二点目
<リメディアル教育の対象となる学生は、基礎学力がないために、そもそも勉学に対する意欲が低い。したがって、教育資源の投資に見合う教育 効果がだせない。>(小島)
●教育資源の投資=上位校の大学教育の水準、と考えるとご指摘の通りだと思います。
しかし、下位の大学の学生は義務教育レベルの水準にさえ到達しておりません。その学生たちに、最低限の学力と、思考力をつけて世に送り出してあげる。これは、下位大学の投資に見合う効果です。分からないまま放置する、学生責任で退学に追い込む、こちらのほうが、よほど不経済と考えています。
三点目
<こうした学生はしばしば経済的な困難を抱えており、アルバイトなどをしないと生活ができないため、勉学に集中できない。教科書や参考書なども 気楽に購入できない、などの問題があります。>(小島)
●これは、T大ではあてはまりますが、下位の現場で言えば、家は裕福、金には困ってない。だけど勉強嫌い、やる気無い。といった学生層が一定数います。親に資源があっても、子どもがその気にならないというやつです。私自身が、落ちこぼれていた時は、このタイプでした。
最後に
<大学の教員の側の問題としては、以下のようなことがあると思います。大学の教員のプライドがこうした教育をやるのを阻止する。>(小島)
●この点は、そんなプライド捨ててしまえ、目の前の学生に向き合えない教師としてのプライドはないのか?と、問いたいです。研究志向なら上位の大学や研究機関に就職すれば良かったわけで、それが出来ずに下位の大学にいるなら考え方を変えていただきたい。
<現実問題として、研究業績が重視される。>(小島)
●ここが最大のポイントになるのでしょう。大学はもう多様化していて、研究者として優秀であることが、学生に還元できない環境もあるのです。実感としては、半数の大学がそうでしょう。学生に対して、どのように自分の研究が還元できうるのか、下位の大学はこれを研究テーマにしても良いのでは。研究職教員、教育職教員と、明確に分けても良いのかもしれません。数学を専門としていない私ですが、数学科目の私の授業アンケートは上位です。このレベルの大学では<数学研究者として優れていること>よりも<数学が分からない学生が、分かる授業をすること>こちらのスキルが求められているのがリアルです。
児玉先生は、また違った考え方かもしれません。ただL大学という職場で共に闘ってきたので、共通認識は持っております。小島先生のように、理解ある教育研究者が、増えていくことを願っております。(鷲北貴史)