映画こと(その2)

先日観た映画「ラ・ラ・ランド」の隣の映画館では、ちょうど「チア・ダン」やっていた。こちらの評判も新聞で読んでいたが、年寄りひとりで入るのは恥ずかしく、敬遠した。同世代のK先生から下記のメールをいただき、こちらを見た方がよかったなと、後悔した。

<「ラ・ラ・ランド」は私も見ましたが、「サウンドオブミュージック」のような感動はなく、正直、期待はずれでした。私はいわゆる青春ドラマに感動するのですが、最近みた「チア・ダン」とか「ちはやふる(前後編)」、さらには「のだめカンタービレ」(最終楽章のみ映画館、あとはDVD12巻—浮間船渡駅前のブックオフで一括購入)などに感動(しました)。
「チア・ダン」は上映中なので既にご覧かもしれませんが、客席は若い女性で一杯、最後の山場に近づくと感動のすすり泣きで館内は満たされて教育学的に得難い体験をしました。ご参考までに;http://ciatr.jp/topics/183044>

敬愛大学卒業式、パーティ

昨日(3月23日)、敬愛大学の卒業式と卒業パーティがあった。私は4年生のゼミは担当していないのでゼミの卒業生はいなかったが、こども学科の学生は1年次、2年次の時に担当し、ゼミも担当したので、顔も知りの学生も多く、4年間で大きく成長し、社会に羽ばたく未来を祝福した。
専任として敬愛大学に勤めるもの最後で、花束をいただいた。

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読書2-黒沼ユリ子『メキシコの輝き』を読む

今日は、黒沼ユリ子『メキシコの輝きーコヨアカンに暮らしてー』(岩波新書,1989年)を読んだ。
文章がとても読みやすく、内容も興味深く、2時間もかからず新書226頁の本を読み終えた。
村上春樹の小説を読み終えるのに数日かかったのに比べ、とても楽で、これはどこから来るのであろうかと思った。
小説に比べ評論や随筆の方が読みやすいのであろうかあろうか。これまで逆だと思っていた。あるいは、村上春樹の文体が読みにくく、黒沼ユリ子の文体が読みやすいのであろうか。

黒沼ユリ子は「自分が何かに感動したり、怒りをおぼえたりすると、どうしても、それを第3者に伝えたり、解ってもらったりしたくなってしまう」という動機から、自分の感動したメキシコの文化、壁画家、子ども為のバイオリン学校等について、いい文章で書いている。もともと文才のある人のようだ。
メキシコでは、今を生きるということが大切で、人と過去にかわした約束もその時に時間通りに果たせなくても気にしないなどの、日本との文化的差異は面白いと思った。
メキシコについては、昔社会学者の見田宗介や他の研究者の滞在記を読んで、魅力的な国だなと思ったことがある。
黒岩ユリ子のバイオリンや子どもの為の音楽教室に関しては、音楽的なセンスのない私にはよくわからないが、その周辺の文化的な部分に関しては、もう少し興味をもって、読んでみたい。

読書―村上春樹『騎士団長殺し』を読む

家にいると、本が読めるようで読めない。
テレビのニュースを見なくてはならない、新聞を読まなくてはならない、犬の散歩に行かなくてはならない、買い物に行かなくてはならない、庭の雑草を抜かなくてはならない、テニスや卓球の練習に行かなくてはならない等々、次々から次へやらなくてはならないことが思い浮かび、読書は後回しになる。

お蔭で、村上春樹『騎士団長殺し』(1部507頁、2部541頁)を読むのに1週間近くかかった(知り合いの読書家のJ.K.さんは1日で読んだことであろう)
先ほどやっと読み終った。今は山登りをしてやっと下山して、疲れてボ~としている感じである。それほど高い山ではないが、最初はゆっくり上り、高い平地を少し歩き、そこから急な坂を下り、平地に降りて、この山登りは何だったんだろうと思っている感じである。

物語は肖像画家の主人公の観点から書かれている。主人公と各登場人物との関係がお互いの気遣いからか秘密が多く(話していいことと話していけないことを常に意識している)、人との会話は親しい人とでもとても緊迫したもので、読む方も緊張を強いられる(確か漱石の『明暗』の登場人物の会話も、このように緊迫したものであったように思う)。
主人公(男)は、結局のところ、同性よりは異性(妹、13歳のモデルの少女、妻)に惹かれ心を許している。そして同性とは距離を取っている。主人公の大学時代からの親友の雨田氏には、住むところが困っていた時、雨田氏の父(雨田具彦)の別荘を貸してもらい、別れた妻との関係の修復を手助けしてもらいながらも、雨田具彦の『騎士団長殺し』の絵の存在を最後まで明かしていない。親友なのだからもう少し心を許し、何でも話して相談すればいいのにと思ってしまう。またいろいろなことを相談し、命まで助けられた免色(メンシキ)氏にも、その絵の存在を最後まで秘密にしている。
また、登場人物の親が子を思う心情の描き方に不満を感じた。免色氏は自分の子どもかもしれない13歳の女の子のことが気掛かりで、その為にその近くの豪邸まで購入し見守るのだが、その子が失踪した時、心配する様子も慌てる様子もなく日々を過ごしている.親の子を思う心情はこのようなものではないだろうと思ってしまった。
この小説は恋愛小説としても読める。村上春樹の恋愛観は、「男にとって女性はいかに大切なものなのか」ということは一貫していて、それは男同士の友情や親子関係をはるかにしのぐものである。ただそれは近代の恋愛結婚のイデオロギーに則つているように思う。
この世とあの世の境(超自然)の話は、よく出てくるが、その評価は私にはわからない。
結局のところ、私の力量では、この大作に明晰な感想は述べることはできない。それは識者に譲ろう.

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ジェンダーとオモチャ

男の子と女の子で興味を示すものや遊ぶオモチャが違うのはなぜだろう。
社会学のジェンダー論からすれば、それは大人の思い込みから性別により与えるオモチャが違い、大人の誘導が大きいということになると思う。
確かにそのような面もあると思うが、うちにいる2歳と4歳の男の子をみると、車が好きで、うちには近所からもらったものを含め100台位の車のオモチャがある(100円ショップで買う車も、今は動き精巧に出来ている)。
特に消防車、パトカー、シャベルカーが好きで、それをいじったり,テレビやビデオやyou tubeでそれらの車を見ていると飽きない。(うちで二人の娘を育てた時は、全く自動車には興味を示さなかった。)
今日は、消防車やパトカーの実物を見ることができたようで大喜び。将来は消防士になると言っている。
ジェンダーの問題をオモチャから考えてみるのも面白いと思った。

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