昨日(5日)、新宿のホテルで開かれた会で、地方の人口減少のことが話題になっていたが、それと対照的に新宿の街には人があふれていた。
また、年末の都会(新宿)のイルミネーションも綺麗。人も少なく店も明かりもない地方から、若い人が明るい都会に魅かれ、移動するのも必然かと感じた。
投稿者: takeuchi
放送大学東京文京学習センター・自主ゼミ(SEガーデン)
以前に放送大学東京文京学習センターの客員教授をしていた時、毎月2回ほど自主ゼミを開講していた。その自主ゼミは、私が辞めて後も、学生の皆さんが「SEガーデン」というサークルのような形で毎月1回(第2木曜日の15時30分~18時)に、文京学習センターの演習室で開催している(参加自由)。
私もメンバーの一人だが、東京を遠く感じるようになってから、参加は少なくなっている。
今度新しい試みとして読書会のような形式で開くという。読書会の第1回(12月14日)は私の愛読書の1つである江藤淳の『アメリアと私』(講談社、昭和44年)を取り上げるというので、久しぶりに参加する予定。
この本に関して、このブログでも2回(2015年8月11日、2016年2月3日)、言及している。
放送大学のメンバーには、下記のメールを送った。
久しぶりに、12月14日の自主ゼミに参加させていただきます。この頃私は1週間のうちで、働くのは3時間だけ(授業で2コマ)という暇な生活を送っているのですが、たまに頼まれた原稿がなかなか書けなかったり、千葉から出るのが億劫だったりして、なかなか自主ゼミまで足が向きません。
たまに東京に行くと、東京の人は千葉と皆服装が違うなとか、テンションが違うなと感じてしまい、おのぼりさんの心境で、ドキドキします。
今回、私の愛読書の1つを取り上げていただけるということで、御礼申し上げます。ただ、『アメリカと私』は、半世紀前の私の20代の時に読んで感銘を受けた本で、最近読みかえしてみましたら、やはり時代を感じてしまいましたので、皆さんに大丈夫かという心配があります。
それに、江藤淳は少し「くせ」のある人(?)で、好き嫌いが分かれるかもしれません。その人柄をよく知る人(慶応時代の同級生)から、なかなか「付き合いの難しい人」と聞いたこともあります。
思想的には、少し右(保守)寄りりの人かもしれませんが、左の吉本隆明とは気が合い(対談をしている)、大江健三郎とは、最初は同世代で仲よく、後に喧嘩しています。子どもはいなくて、奥さんと仲が良く、奥さんが亡くなって少し経ってから、後を追うように自殺したのが、衝撃的でした。
私は、武蔵大学に勤めていた時、学生向きの講演を頼んだことがあり、一度だけお会いしたことがありますが、気さくな感じの人でした。名刺には、表に江藤淳とだけあり、肩書も何もありませんでした。名刺に名前だけのものをもらったのは、後にも先にもこの時だけで、感激しました。では、自主ゼミの読書会を楽しみにしています。
追記 読書会に向けて最近もう一度読みかえしている。もう50年も前に書かれ、書いた江藤淳もこの世にいないのに、読むとその場(アメリカのプリンストン)にいるような臨場感を味わうことができる。文学の力はすごい。江藤淳の奥さんに対する態度(ジェンダー観)は今からみると古いと感じるが、アメリカの夫婦は孤独ながら、厳しいアメリカの競争社会の中で、夫婦が力を合わせてこそ生き抜くことができる(一人で生きるのはかなり難しい)と書かれているのが印象的あった。(12月9日)
追記2 当日、丁寧なレジメが配布され、内容に即した様々な議論がなされた。
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授業の記録 (12月1日、多文化教育について)
本日(12月1日)の敬愛大学での授業(教育課程論)のリアクション項目と配布資料を掲載しておく。
テキスト(『教育の基礎と展開』の10章を読んでレポートを提出するように課題(宿題)を出しておいた。
教育課程論(12月1日)リアクション 多文化教育について(その1)
1 井上茂先生(英語の教職について)のお話についての感想
2 前回(ジェンダーと教育)に関する討論の感想
3 テキスト 第10章(多文化共生と教育)で、提言されていること
4 多文化教育のエッセンスは何か(松尾、佐藤参照)
5 なぜ、異民族排斥、ヘイトスピーチが起こるのか(配布プリント参照)
6 なぜ 国際理解が困難なのか、それを克服する方法は(「教育の国際性ってなぜ必要なの」参照)
次週への課題 佐藤郡衛 「多国籍化する学校」(配布プリント)を読んでくること
英語に関しては、教員採用試験で小学校の免許だけでなく中学校の英語の免許を持っていると採用に有利になる(千葉の小学校の教諭の採用枠に中高の英語の免許を持っているものには別枠の採用がある為)という貴重な情報が提供された。それと同時に教育学の立場からすると、「なぜ英語を学ぶのか」「英語は汎用的な言語(世界共通語)といえるのか。そこに文化的偏りはないのか」なども考える必要があると説明した。
多文化教育や異文化間教育的視点は、単一文化的視点(メルティングポット)や比較文化的視点(旅行アプローチ)とは違い、マイノリティ(弱者)の立場に立ち考えることであること。またマジョリティーも異文化(マイノリティー)とまじわることにより自分達も豊かになるという意識をもつ視点であると説明した。
経済がグローバル化する中で、国を超えた物的人的交流が起こるのは必然であり、他者(当たり前を共有しない人)との関係を築き、「不快さに耐える」ことが必要という論(藤井)を読んでもらい、多文化教育を、理想だけでなく、現実のものとして考える時、どのような問題が出てくるかを説明した。
配布資料
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リアクション&中間レポート
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Pay it forward(恩送り)
人から恩を受けたら、その人に恩を返せればいいけれど(返礼)、何かの事情(力の差、遠くにいる、故人等)でそれがかなわない時、それを別の人や次の世代の人に返すPay it forward(恩送り)ということばがあることを、知った。
ヤクザは恩を直接当人に返すのが仁義であろうし、ボランティアは別の人に返しているのかもしれない。それは、日本的なことなのか、西洋的なことなのか、世界共通なのかわからない。ネットで少し調べてみる(以下、ネットより転載)
ペイイットフォワード(ペイフォワード、pay it forward、pay forward)
ある人物から受けた親切を、また別の人物への新しい親切でつないでいくことを意味する英語。または、多数の人物が親切の輪を広げていくための運動のこと。アメリカ合衆国などで突発的に一つの場所で行われることが稀にある。ちなみに同一人物にお返しすることはペイバック(pay it back,pay back)というが、これでは2人の間で親切が途切れてしまう上、悪い意味でのお返し(復讐)の意図も含んでしまうことがある。(Weblio)
恩送り
恩送り(おんおくり)とは、誰かから受けた恩を、直接その人に返すのではなく、別の人に送ること。「恩」とは、めぐみ、いつくしみのことである。誰かから受けた恩を、自分は別の人に送る。そしてその送られた人がさらに別の人に渡す。そうして「恩」が世の中をぐるぐる回ってゆくということ。江戸時代では恩送りは普通にあったと井上ひさしは述べている。(wikipedia)
敬愛大学国際研究第30号について(その2)
大学の紀要は、読む人が少ないと書いたが、実際は読んでみると面白い。
最近出された敬愛大学国際研究30号には、中東問題の研究で有名な水口章教授や、西鶴研究で第1人者の畑中千晶教授が、自分の専門分野の論文を書いている。また、理科教育が担当の田口功教授は簡易顕微鏡の作成方法を具体的に書いていて興味深い。さらにドイツ中・近世都市史専門の山本健教授の「商人ブルカット・チンク(1396-1462年)の自伝の邦訳」がすこぶる面白い。この時代の商人の生活が生き生きと描かれていて感心した(結婚を4度し、子どもも多く、この時代幼い子どもの死亡率がきわめて高いなど)。
教育学、哲学、英語専攻の佐藤邦政講師が、高野・武内編『教育の基礎と展開』(学文社、2016年)の書評を書いて下さり、それに関連する内容に関する興味深いことを書かれている。
それは、哲学者の鶴見俊輔が若い時、ヘレンケラーに会い、彼女のunlearn という言葉を、「学びほぐす」という意味に解釈し、それは、「型どおりにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおす」こととと説明している、という興味深いエピソードの紹介である。
「私たちは各自の実践と突き合わせながら、気が付かないうちに固定観念となっている見方や考え方について解きほぐす(ことが大事)」と佐藤氏は説明している。
そして、高野・武内編の本について、「本書には、基本知識の習得のほか、意見、自明と思われがちな教育・保育に関わる事象について、読者が学びほぐす工夫がちりばめられている」と評価してくれている。
私は好意的な書評にお礼を申し上げ、下記のようなメールを佐藤氏に送った。
「佐藤さんの書かれたunlearn =学びほぐす というのは なかなか含蓄があり、面白いと思いました。
昔母がよく、毛糸をほどいて新たにその毛糸で別のものを編んでいたことを思い出しました。ただ、今の世代では、使い捨ての時代ですから、それは実感としてわからないかもしれませんね。
(教育社会学の立場は)「われわれが生きている社会を相対化してみる」と竹内洋氏が言っているのを 私は引用しましたが(紀要30号128頁)、これと学びほぐすが、同じことなのか、どうかいろいろ考えさせられました。
常識を疑うというのは、哲学もそうだと思いますが、社会学も同じだと思います。教育に関しては、常識的なことはかなり重視されるので、教育社会学はそれを一度疑ってみようというスタンスをとるように思います。
ただ、それは理論を実践の中で検証するというよりは、(実践自体がその時代の常識によって行われていることが多い為)、ことの起源から考えたり(歴史的視点)、他の国の例から考えたり(比較的視点)するように思います。」