謹賀新年

 あけましておめでとうございます。
 昨年は大変お世話になりました。
 今年もよろしくお願いします。
 皆様にとって、よい1年でありますように。
   平成30年 元旦
              武内 清

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年賀状について

若い人は、メールやLINEで年賀状を送ることはあっても、はがきで年賀状を出す人はごく少数であろう。
高齢者も、「歳なので、年賀状の交換を遠慮させていただきます」と皆に知らせ、年賀状をやめる人も少なくない。
私も自分の歳を考え、年賀状を出したり貰ったりするのをやめる時なのかなと迷うこともある。年賀状をやめて困ることはあまりないように思う。
ただ、私の歳では、年賀状は「まだ生きている」という証しであり、それを証明する為に出しているようなところがある。
1年に1回でも、過去に交友やつながりのあった人のことを思い浮かべ、相手の住所と名前を書き、何か一言年賀状に添え書きをし、過去を振り返るのも貴重な時間のような気もする。
でも、今は、インターネットの時代であるし、メールやLINEなどで、新年の挨拶を交わし、近況を伝え合うことができるのであれば、はがきの年賀状を出すのはやめてもいいように思う。

年末の稲毛海岸散歩

毎年同じようなことをしているように思う。冬になると空気が澄んで、千葉の海(稲毛海岸)からも夕日と富士山がよく見える。それで犬(ソフィー)の散歩も兼ねて、夕方になると稲毛海岸に車を走らせる(15分)。
今日(12月30日)は家を出たのが遅く、海岸に着いた時は、夕日は沈み雲の蔭に隠れ、わずかに周辺の空が赤みを帯びているだけであった。それでも富士山の夕日に映えるシルエットはきれい。
年末年始は稲毛の海のそばの駐車場も無料になり(普段は30分以内無料、30分以上500円)、のんびりと海岸を散策できる。
歳を取り、家の周りしか散歩しない犬(ソフィー)も、海岸に来ると喜び走り回る。

いつもの年と同じように稲毛海岸に犬の散歩に来ることができた。今年1年の無事を感謝する。

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状況に甘んじるのではなく、状況(苦境)をバネに飛翔する

 日本人は状況に合わせることが得意。「間人主義」(浜口恵俊)とも言われ自我を主張するよりは人との間を生きる、その場の空気を読みそれに合わせることをよくする。つまり状況に甘んずる生き方をしがちである。
 置かれた状況はきちんと把握し、その場の空気も読みながら、なお且つそれに流されず、逆境をバネに挑戦を続け、自分で新しい状況を作り出し行動することができれば素晴らしい。
 歳を取ってくると挑戦する気力も体力も衰えてきて、状況に甘んじようという気になりがちである。同世代の藤原新也は、逆境に立ち向かう気迫と行動力を失っていない。見習いたいものである。

 <このまま引き下がるかというと船長の性格上それはできない。というよりトラブルに直面し、それをそのまま受け入れ何も手だてをしない、というのは思考停止というものである。旅にはトラブルはつきものであり、これまで多くのトラブルに直面してきたが、そのつど乗り越えて来た。というよりわざわい転じて福となす、の諺どおりそこで思考停止するのではなく、前向きに何かをやれば前よりさらによい結果が得られるということもしばしば経験して来ている関係上、今回そのまま引き下がるわけにはいかないのである。>(CW,12.27、一部転載)

大学入試問題(英語)のレベルについて

大学入試問題の「傾向と対策」についいての研究は盛んになされていると思うが、入試問題の社会学的研究というものはあるのだろうか。
国語に関しては、石原千秋(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%A7%8B)のものがいくつかあるように思うが、英語に関してはどうだろうか。
昨日、英語の入試問題に詳しい卒業生と話していたところ、下記のような興味深い話を聞いた。

<入試問題は公表されることが多い。その公表される入試問題を見て、「この大学の学生の英語のレベルはこの程度か」と評価されることが多い。そこでその大学の入試の英語問題は、その大学の受験生のほとんどが解けないような難解な問題を出す傾向がある。
その大学のレベルを考えると、中学レバルの英語ができるかどうかを判定するのが一番ふさわしいのだが、そのような問題を出すと、世間から大学が低く評価されるのでそれができない。
その為、受験指導が難しい。その大学を受験する学生の英語レベルを考えると、中学レベルの英語から教えなければいけないのだが、出題のレベルを考えると高度な英語を教えなければならない。しかしそれについていける生徒はほとんどいない。入試問題のレベルとその大学の受験生の英語レベルがあまりに離れていて、受験指導者泣かせになっている。>

大学入試は、本来その大学に入学した後その大学の授業についていける学力があるかどうかを判定する為のものであったが、その後入学希望者は入学定員を上回り選抜の為のものに移行し、そして現在は入学希望者が入学定員を下回るようになり、単なる形式だけのものになっているのであろう。
現在、大学の入試改革が進んでいるようだが、建前ではなく、生徒の学力の現実に則した考察・改革が必要のように思う。