学会の声明について

学会は多様な意見の人の集合なので、意見の一致を必要とする声明を出すのはそぐわない。私が大学院生の頃から入会している「日本教育社会学会」でも、ここ半世紀ほど声明を出したことはないように思う。それが、今回の学術会議の新規会員の推薦者の6名を官邸が拒否した件に関しては、下記のような声明を、理事会が出している。それだけ、推薦の拒否は、異例で異常なことなのであろう。

政府自民党は、学術会議のあり方に関して検討しなければいけないというが、それはそうだとしても、政府が今それを言うのは、問題のはぐらかし以外の何物でもない。今回のことは、今専任の大学教員の17万人(非常勤を入れるともっと多い)、大学・短大生約68万人、さらに多くの大学・短大卒業生を含め、学問や科学を尊重する多くの人の不信を買ったことを、官邸は自覚しているのであろうか。

日本学術会議第25期会員候補者任命に関する緊急声明

内閣総理大臣は、日本学術会議が第25期会員候補者として推薦した105名のうち6名を任命せず、その経緯や理由についていまだ充分な説明を行っていない。これは、日本学術会議法に規定された同会議の本来の目的を著しく歪めるものである。ひいては、同法前文に記された社会的使命を阻害することにつながりかねない。上記に鑑み、日本教育社会学会は、理事会の総意にもとづき、内閣総理大臣に以下の2点を強く要望する。 1.日本学術会議が推薦した会員候補者6名が任命されなかった経緯と理由を明らかにすること。2.上記6名の任命見送りを撤回して、すみやかに任命すること。 2020年10月7日  日本教育社会学会理事会

追記 朝日新聞の社説「学術会議問題 自身の戒め忘れた首相」(10月25日)一部転載。

 <首相は大臣に窓口になってもらうと言い、その井上信治・科学技術担当相は「首相の方で考えていただく」と逃げる。/ 日本学術会議が推薦した会員候補6人の任命を菅首相が拒否した問題で、理由を明らかにするよう求める学術会議側に対し、政権は不誠実かつ無責任な態度に終始している./ 従来の国会答弁に反することをしながら説明をせず、論点を学術会議のあり方にすり替え、たらい回しで相手の疲弊を待つ。それが「国民の感覚」重視を唱える政権のやり方なのか。/ (中略)今回は、省庁の役人とは違い、学問の自由を保障する憲法のもと、政治からの独立・中立が求められる組織の人事だ。慎重さや丁寧さがより求められるケースではないか。/(中略) 6人は前内閣に批判的な発言をしたことがある。総合的、俯瞰(ふかん)的、バランスといった聞こえのいい言葉の裏に、異論を唱える者を許さず、研究者とその集団を政権に従順なものにしようという思惑が透けて見える。/ だがそんな力ずくの手法は、まさに「反発を招き、信頼を失う」。問題発覚後の内閣支持率の下落はその表れだ。/ 批判をかわそうと、政権やその支援者は学術会議の側に問題があるとの言説を流してきた。税金を使いながらまともに活動していない、税投入は日本だけだ、中国の国家事業に積極的に協力している――などだ。/ 虚偽や歪曲(わいきょく)があると指摘されると、訂正したりトーンを弱めたりしたが、ネット上には、誤った情報をもとに会議を批判し、学者をことさらにおとしめる投稿が相次ぐ。フェイクニュースをばらまき、人々を誤導・混乱させた罪は大きい。/ あすから臨時国会が始まる。著書で、説明責任を果たすことの大切さにも繰り返し言及している首相が、数々の疑問にどう答えるか、注目したい。>

スポーツと積極性

 どのようなスポーツも、競争的な要素があるので、個人の積極性が求められるように思う。ただ、積極的な人と消極的な人では、やるスポーツによって向き不向きや、有利不利があるように思う。また子どもの場合、スポーツで性格が変わる場合もあるではないか。

 子どものやるサッカーを見ていて、消極的な性格の子は、自分からボールを取りに行こうとせず、偶然自分のところに来るボールを待つばかりなので、ボールに触る機会が少なく、サッカー向きでないように思う。ただ逆に、消極的な性格の子がサッカーで積極性を身につけ、性格も積極的になるというケースはあると思う。

 最近、テニスと卓球のダブルスの練習試合をしていて、一つ違いがあることに気がついた。テニスのダブルスの試合をしている時、組んだぺアの人との間に球が飛んできてお見合い(譲り合い)になり、相手に得点を献上することがよくある。私の場合特に上手な人と組んだ時は、自分が下手にラケットを出してミスをするよりは、上手なペアの人に打ってもらおうと、つい消極的になってしまう。それに対して、卓球のダブルスの場合は、ペア同士が球を交互に打たなければならないので、自分の打つ番の時はどこに球が飛んで来ようと、責任を持って打たなければならず、必死に打つことになる。その分、積極的になる。

 以上のように、少し積極性に欠ける人間は、テニスより卓球をした方がいいように思う(もちろん、シングルスの試合をやる分にはテニスも卓球も変わらないし、積極性のある人はどちらでも同じであるが)。

季節感

私達の季節感は、暑さ寒さの気候だけでなく、年中行事にも依っている感じがする。今年は新型コロナ禍の為、学校や大学の学期の開始や終了が変則で、季節感に変調をきたしている。

少し前まで夏だと思っていたのに、もう秋分の日も終わり、10月に入っている。秋の花、コスモス等が咲き始めた。それらの草花を見て季節感を取り戻したい。

認知的不協和について

心理学に「認知的不協和理論」がある。それは、「人が自身の認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、矛盾する認知の定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている」(ウィキペディア)。

この理論を持ち出すまでもなく、私たちは認知の矛盾を解消することを、無意識的にやっている。たとえば、私は、A(村上春樹)という作家が好きだとする。私は、Bという人に友情を感じているとする。ところが最近、BがAのことを悪く書いているのを知った。私→+A,私→+B、B→―A(+は好き、-は嫌い)という関係にあり、私からみて、私とAとBの3者の関係は、矛盾(不協和)になる。(その関係の符号の積がマイナスになると不協和)

そこで、私がこの矛盾(不協和)を解消すべき取る方法は,① Aを嫌いになる。② Bへの友情を解消する(薄める)のどちらかである。普通 ②の方法をとることになると思うが、少し残念なのは、BがAのことを悪く言うのに接した(B→―A)ということである。そのようなことがなければ、あるいはあっても知らなければ、Bへの友情は薄れることはない。つまり、そのようなことは知らない方がいい。さらに言えば、そのような事態を起こさないようにした方がいい。自分の好きなことは、自分だけに取っておき、親しいし人にそれを押し付けたり、その感想を聞いたりしないない方がいい。夫婦や親友といえども、自分の好きなこと(たとえば小説や映画やドラマ)は勧めない方がいい。そんなことをすると、認知的不協和が生じ、関係が壊れる危険性がある。でも、自分と感覚や価値観の近い人と結婚したり親友になったりするので、それとの矛盾・認知的不協和をどうすればいいのだろうか。人生は矛盾が多い

夏の終わり(その2)

この4連休は、高速道路が混雑しているという。この夏に旅行をできなかった人や、お盆に帰省できなかった人が、その埋め合わせをしようとしているのであろう。

千葉県の高速道路も首都圏ほどではないにしろ、かなりの混雑で、外房の九十九里海岸も、それなりの人が出ていた。ただ、例年の夏の賑わいはなく、夏の終わりの侘びしさと、秋の気配を感じた。