今日(4月4日)は、昨日までの雨も明け方にはあがり、久しぶりに良い天気で、家の近所の桜を見て回る。家の前の小学校の桜、近くの児童公園の桜、自転車で15分のところにある用水路沿いの桜、千葉市動物公園裏の水路沿いの桜など、すべてソメイヨシノだが、ほぼ満開に近い桜を鑑賞することができた。平日ということもあって、お花見をしている人はすくない(千葉と東京の違いか? 先週見た東京の千鳥ヶ淵と大違い)いくつかの箇所では、例年より桜の花が少ないようで、これは地球温暖化が影響しているのか、これからの桜の花が少し心配。
投稿者: takeuchi
風の便り78号
今月も4月1日に、辻氏より「風の便り78」が郵便で送られてきた。今月は、春にふさわしく花の話。ダリヤ、カーネーションは馴染みの花だが、スターチス,センニチソウ、エリンジジューム、ガーベラはほとんど買ったことも、庭に植えたこともない。それぞれの花の由来などが記載されていて知識が増えた。一緒に添えられている手紙には、辻さんの趣味の飛行機の精悍な写真が掲載されていた。飛行機と言えば、成田さくらやま公園に飛行機と桜を見に行きたくなった。(https://www.bing.com/images/search?q=%e6%88%90%e7%94%b0+%e3%81%95%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%ae%e5%b1%b1%e5%85%ac%e5%9c%92&qpvt=%e6%88%90%e7%94%b0+%e3%81%95%e3%81%8f%e3%82%89%e3%81%ae%e5%b1%b1%e5%85%ac%e5%9c%92&form=IGRE&first=1)
今年はまだ天候も不順で桜もまともに見に行っていないが、2週間ほど前、河津桜とソメイヨシノの50センチほどの苗木をホームセンターで買って来て、大きな植木鉢にそれぞれ植えた。河津桜は花が落ちて葉だけになってしまったが、ソメイヨシノはまだ咲いている。庭に桜の木があり、桜が咲いていると、何かとても優雅(リッチ)な気分になる。
教育と職業(キャリア)はどのように結びつくのか
最近、愛知教育大学の片山悠樹さんから『就「社」社会で就「職」する若者たち―専門学校生の初期キャリア』(学文社、2025)という編著書を送っていただいた。それを読んで、学校や大学で学んだことや身につけたことが、将来の職業社会でどのように役立っているのかに思いを馳せた。片山氏は、これまでの教育社会学の研究では、会社への就職ばかりが研究され、学校で学んだ職業的な知識や技術そのものが、職業社会の中でどのように生かされているのかの研究がほとんどなされてこなかったと指摘している。そこの欠落部分に注目して、専門学校生のキャリアを、実証的に研究したとのこと。片山氏の研究は、職業高校生を研究した氏の前研究に続き、この分野の新しい視点を切り開くものだと感心した。同時に、これは人的資本論や技術教育論の再評価ではないかとも感じた。 関連したことを、生成AIに聞いて、頭を整理した。
質問1―大学や学校時代に学んだ知識や態度が社会に出てからどう生かされるのでしょうか。別の言い方をすれば、企業は社員を採用する際、応募者のどこを評価して採用しているのでしょうか。その人の職業的知識や技能を評価するという人的資本論的な見方、その人の訓練可能性を評価する見方(この場合その代表指標として学業成績や学校ランクを使う)、選抜の費用を低く抑えるために応募者のシグナル(学歴や学校ランク)に注目するという見方があると思います。現在は、企業が人を採用する際、どの見方が優位になっていますか?
ChatGPT:の回答―企業が新卒採用を行う際の評価基準には、主に以下の3つの視点が存在します:人的資本論的視点:応募者の専門知識や技能など、直接的な職業能力を評価する。訓練可能性の視点:応募者の将来的な成長や適応能力を評価する。この際、学業成績や出身校のランクが指標として用いられることがある。シグナリングの視点:学歴や学校ランクを、能力や適性のシグナル(指標)として活用し、選考の効率を高める。/ 近年の日本企業の採用動向を見ると、これらの視点が組み合わされているものの、特にシグナリングの視点が依然として重要視されている傾向があります。多くの企業では、効率的な選考を行うため、学歴フィルターを設けて応募者を絞り込むケースが見られます。これは、採用コストの削減や、一定の能力を持つ人材を確保する目的があります。/ しかし、学歴フィルターの適用には課題も指摘されています。例えば、偏差値の高い大学出身者が必ずしも入社後に高い成果を上げるとは限らないとの調査結果もあります。あるIT企業の調査では、入社5年目の社員の活躍度を評価した際、高校・専門学校卒の社員が最も高い評価を受け、次いで東大・京大・早慶クラス、最も低かったのがMARCHクラスであったと報告されています。/このような背景から、企業は学歴だけでなく、応募者の組織適合性や職務適合性を重視する傾向も強まっています。組織文化や職務内容に適した人材を見極めるため、企業は自社の価値観や求める人材像を明確にし、それに基づいた採用活動を行うことが求められています。 / 総じて、現在の日本企業の採用においては、シグナリングの視点が依然として重要視されつつも、人的資本論的視点や訓練可能性の視点も組み合わせ、総合的な評価が行われていると言えます。
Bing チャットの回答―これは非常に興味深い質問ですね。企業が人を採用する際の基準については、時代や業界によって異なる傾向が見られますが、近年は「多様な要因のバランス」が重要視されることが増えてきています。以下、それぞれの観点について簡単に説明します。/ 職業的知識や技能(人的資本論) 特定の専門職や技術職においては、依然としてこの視点が重視されることが多いです。プログラミング、データ分析、医療など、直接的なスキルが業務に直結する場合、これらの知識や技能が選考の中心となります。/ 訓練可能性(ポテンシャル重視) 多くの企業では、学歴や学校ランク、学業成績などを「基礎的な能力」や「学ぶ姿勢」の指標として考慮します。しかし、最近ではポテンシャルの見極めがさらに重要となり、応募者の柔軟性、問題解決能力、コミュニケーションスキルなどが重視される傾向が見られます。つまり、「この人材は新しい環境でも成長し適応できるか」という視点です。/ シグナリング(選抜の効率化) 学歴や学校ランクをシグナルとして活用する傾向は根強いですが、これは業界や企業の文化によって異なります。特に学歴主義の傾向が強い企業では、初期スクリーニングで学歴やランクが重要視されることが多いです。一方、スタートアップやIT系企業では、これらにこだわらず、具体的な成果(プロジェクト、ポートフォリオ、実績)を重視することが増えています。/ 現在のトレンドとしては、人的資本論的な知識や技能だけでなく、「個人の適応力」や「多様な視点を受け入れる力」を重視するケースが増えていると言えます。また、多くの企業が応募者の「価値観の合致度」や「文化的フィット感」にも注目しています。これは、職場での協調性や長期的な貢献を期待するためです。/ 特に日本では、従来の「新卒一括採用」という仕組みの影響で、学歴が重要視されてきた背景がありますが、最近は中途採用やスキルベースの採用も増加傾向にあります。
質問2—職業でも専門的な知識や技能が要求される場合は、その特異な知識や技能を生かして職業生活を送る場合がある(看護師、保育士、自動車整備工、弁護士等)と思います。そのような職業教育を受けるためにはどのような学校や大学(教育機関)で学べばいいのでしょうか? あるいは、職についてからオンザジョブで学ぶことができるのでしょうか?
ChatGPT:の回答–専門的な知識や技能が要求される職業に就くには、以下の2つのルートがあります。/ 1. 教育機関で学ぶルート;多くの専門職では、特定の教育機関での学びが必要です。以下のような教育機関があります。大学・短大;看護師 → 看護学部・看護短期大学、弁護士 → 法学部(+法科大学院)、専門学校;保育士 → 保育士養成専門学校、自動車整備工 → 自動車整備専門学校、職業訓練校 厚生労働省の認定する職業訓練施設(例:ポリテクカレッジ)で技術を学ぶことも可能。/ 2. オンザジョブトレーニング(OJT)で学ぶルート;一部の職業では、職についた後に実務を通じて技能を習得することも可能です。職場でのOJTが重要な職業,自動車整備工 → 資格取得後も現場での経験が重要。看護師 → 臨床研修や新人教育プログラムを通じて現場で学ぶ。弁護士 → 司法試験合格後、司法修習を経て実務を学ぶ。/ 結論-🔹 資格必須の職業(弁護士、看護師、保育士など)は、事前に教育機関で学ぶことが必須。🔹 技術職(自動車整備工、大工など)は、学校で基礎を学び、現場でのOJTでスキルを磨くことが多い。🔹 OJT主体の職業もあるが、専門知識が求められる場合は、学校での学習が有利になる。どの職業でも、最終的には「学校で学ぶ理論」と「現場での実践」を組み合わせることが重要ですね。
敬愛大学こども教育学科の学生の学力と教職への熱意
敬愛大学教育学部こども教育学科の科目のなかに「教育社会学」(2単位)が、2年生の必修科目として2021年から設置された。私はそのその科目を2022年度から2024年度の3年間担当した。敬愛大学の教育学部の紀要の最新号に、その授業内容を書かせてもらった。
ここでは、過去3年間の「教育社会学」の授業の受講生のレポートの一部を記録に残す(レポートの一部は匿名で公開することもあると受講生の了解を得てある)。授業では毎回、200~1000字程度のコメントを学生に書かせたので、最後のレポートは負担を軽くするため、400字~2000字程度のものでいいと伝えた。毎年の受講生は70名程度で、ここに掲載するは比較的よく書けている全体の3分の1程度のものである。
私の拙い遠隔授業(第1回は資料の配布の為対面の授業を行ったが、それ以降はオンデマンドの遠隔授業で行った)にも関わらず、学生諸君は、よく学んでくれたと思う。敬愛大学こども教育学科の学生の学力(知識、感性、文章力等)と教職への思いや熱意がこのレポートから伺える。
マージナルな存在について
人から何か話を聞いた時、そのことに関して自分だったらどのように考えるだろうあるいは考えたであろう、と思いめぐらすことはよくある。馬居政幸氏(静岡大学名誉教授)より、今度の「日本子ども社会学会」の大会で、「学校教育において外国ルーツの子どもはなぜ周縁化されるのか ーDEI+Bが問う公教育 (公立校)再構築の道筋(その1)ー」というテーマで共同発表するというメールをいただき、私は過去にそのことに関連することでは、何を考えたであろうと思いを巡らせた。氏らの発表は、その先を行くもので、私のものは参考になるものではないと思うが、記録には残しておきたいと思った。
それは、敬愛大学の授業のテキストでも使った『教育、大学、文学、ドラマ、日常―教育社会学的考察―』(武内清 2023.9)のⅠ-11(多文化教育的視点)と、Ⅶ―4(カズオ・イシグロ・土屋政雄訳『私を離さないで』(早川書房、2006年)の記述である。下記に転載しておく。
1―11 多文化教育的視点―異文化に対する視点に関して、佐藤郡衛氏は、3つの視点のあることを指摘している。(『海外・帰国子女教育の再構築』)「単一文化的視点」「比較文化的視点」「異文化間的視点」の3つである。第3の「異文化間的視点」がいちばん大事で、そこでは「文化を動態的にとらえ、相互作用を通して文化は変わりうるものとしてとらえられる」。つまり、異文化に接することにより、自分たちの文化も変わり、人生が豊かになると考える。これは「多文化教育的視点」とも同一のもので、マイノリティ(権力がない少数者)の立場を尊重し、その集団や文化も尊重し、相互作用を行う中で、マジョリティの文化も変わり、幅が広がり、心が豊かになると考える。/外国籍の児童が半数近くいる千葉市の高浜小学校の佐々木惇校長の次のように述べている。「外国につながる児童の存在は、本校児童の学習活動のための資源の1つとなっている。より効果的な活用を図ることにより、学校教育目標の具現化につながるものと考えている。 また、変化が激しい社会情勢の中、児童個々の違いを認め合える環境での学習活動が児童個々の成長を効果的に高めると感じている。」/ 多文化教育で、大事なことは、多様な見方を理解し、許容することである。その際に、バンクスの「転換アプローチ」は有効な方法である。他国や他者の立場から,同じ事象を見てみる。たとえば、第2次世界大戦や広島・長崎への原爆投下を、日本の視点からだけでなくアメリカの視点からもみてみる。「原爆教育」は、日米で行われている。/ 「ニュカマーの家族は、自分たちの日本への移動に、それぞれの『家族の物語』を有していた。そしてそれに対応した形で、個別的な『教育戦略』を採用して、日本の社会に適応しようとしている」(出稼ぎニュカマー、難民ニュカマー、上昇志向ニュカマー)(志水・清水編『ニュカマーと教育』明石書店,2001.p.364)/ 経済がグローバル化する中で、国を超えた物的人的交流が起こるのは必然であり、他者(当たり前を共有しない人)との関係を築き、「不快さに耐える」ことが必要。多文化教育を、理想だけでなく、現実的に考えることも必要である。(2016年12月10日)
Ⅶ―4 カズオ・イシグロ・土屋政雄訳『私を離さないで』(早川書房、2006年)―もう一度読んでみたい小説のひとつにカズオ・イシグロの『私を離さないで』があることは確かである。何か心の琴線に触れるものがある。ただそれは哀しさが基調になっている。加藤典洋の『世界をわからないものに育てること』(岩波書店、2116)の中に、『私を離さないで』論がある。その中の指摘に、考えさせられることが多くある。特にマージナルな立場についての言及になるほどと思った。/イシグロは5歳のときに親の都合でイギリスに渡り、二つの国の言葉の間に宙釣りになっている。母語をもたない小説家であり、言語的にマージナルな立場にある。/彼の第2作『浮世の画家』の主人公の小野は、戦争中に戦争を賛美する絵を描き、戦後にそのことを肯定はしないが、その当時はそのように考える以外に方法はなかった、とその不可避性を信じている。それは「戦前の戦争目的をいまもなお信じるという国家主事者たちとも、これを否定する戦後の民主主義者たちとも違っている」(162-3頁)。(これは、加藤の『敗戦後論』の立場との共通性があろう)/「私を離さないで」に出てくるクローン人間は、「健常者と完全に同等というほどの能力もたぶん、もたされていない。しかし読む者は、より弱く、偽物の生を生きる疑似人間の方が、本物の人間よりもディーセントで、人間的ですらある、という不思議な読後感をここから受け取る。『人間』であることは、必ずしも『人間的』であるための、必要条件ではないようだ」(167頁)とあるように、クローン人間は人間に対してマージナルな存在であるが、繊細で、健気で、純粋で、心打たれる。/このように言語的にマージナルな作家が書く、日本の敗れた戦争にマージナルな意識をもつ主人公、人間に対してマージナルな存在のクローン人間など、マージナルな作家がマージナルな登場人物を描いていて、何かに同一視(アイデンティファイ)している人間にはわからない新しい、深い問題を探求している。それは、主流や既存の勢力の以上の抵抗性や戦闘性をもつことがある、という加藤の解釈は興味深い。「私を離さないで」には、ネットで見ても、さまざまな感想、書評がある。再読して、いろいろ考えてみたい。(2020年4月2日)