事務的に「滞る」ことについて

効率が優先される時代で、事務的に何かが滞るというには、なるべく避けるのが好ましいと思うが、実際の日常生活では、些細な行き違い(あるいは事故や事件)が起き、滞りが生じることがよくある。その場合、そのことをマイナスに考えるのではなく、そのことによって生ずる(関係者の)修復の行動が思わないよい結果を生むとプラスに考えるべきかもしれない。

小室等著『人生を肯定するもの、それが音楽』(岩波新書、2004)の中に、小室氏*が経験したアジア国際音楽祭の際の滞った経験が綴られている。通訳が不足して出演者やスタッフの意思疎通が滞った結果、皆流暢にしゃべれるよりかえって深く、お互いを理解しようと努力し、コミュニケーション深まり、演奏のモチベーションも高まり、いい音楽祭になったというエピソードである(同書99-103頁)

日常的に起こる様々なトラブルで、それがない時のスムーズさが損なわれた故に、関係者が密なコミュニケーションを行わざるを得ず、その修復の努力の中で、自然に共同関係が生じ、お互の関係が新たな次元に進み、期待していなかった副産物も生じる場合がある。人が生きるということは、そのようなことの連続かもしれない。新型コロナ後の学会の開催や、普段使っていたテニスコートの1次閉鎖でテニスメンバーのとった代替活動で、そのことを感じた。

*小室等のことは、一時期吉田拓郎や井上揚水と一緒に作ったバンド「六文銭」のことで名前だけしか知らなかったが、今回たまたま氏の書いた交友録のような本を読んで、その柔軟な志向に感心した。ただその歌をYou Tubeで聴いてみると、(私の鑑賞力のせいかもしれないが)、あまり個性が感じられず、やはりフォークは吉田拓郎や井上揚水だなと思ってしまった。

高齢者の猛暑の過ごし方

 高齢者が熱中症で救急車で搬送されるニュースが続いている。幼い頃、家にクーラーなどなく、暑い夏を過ごした高齢者にとって、夏は暑いのが当然で、それで倒れるなんてありえないと思っている節がある。同世代の私も同様で、他人ごとではない。

 暑い7月、8月のテニスと卓球の練習への参加も、自分の歳を考えると、どうするか悩みの種である。卓球は、小学校と近くのスポーツセンターの体育館で行われるが、どちらもクーラーも扇風機もなく、締め切った中での2時間の練習のため、蒸し風呂状態である。スポーツドリンクを飲み、何とか気力で耐えている。炎天下でのテニスは、日差しでさらに暑い。ただ風が吹いたりして、卓球より暑さを感じない時がある。クレーコートの場合、練習前にコートに水を撒くと、その蒸発熱で、少しは涼しく感じることができる。それも午前11時までで、それ以降のテニスコートは暑い。

 私の小学生の頃の夏休みといえば、外でトンボや蝉取り、魚釣り、草野球など、友達と半ズボン、ランニング姿で外を駆け回り、暑さとともにあった。家に風呂も冷蔵庫もなく、夕方盥で行水をして、ラジオの「1丁目1番地」を聞くとやることがなく、7時過ぎには、蚊帳の中で寝ていたように思う。朝早く目が覚めてもやることがなく、寝ながら天井の模様ばかり眺めていた。

 今は、暑い夏はエヤコンのある部屋で過ごす子どもが大部分で、子どもたちもテレビとスマホとゲーム機で、涼しい部屋にいながら友達とスマホで話しながらゲームができ、テレビやYOU TUBEも見放題で、暑さを感じる時間は少ないのではないか。

 今の私は、家のPCの置いてある部屋のクーラーが壊れ、その部屋の構造と家の電気の配線の容量との関係で新しいクーラーの設置は無理と言われ、何とか扇風機で暑さに耐えている。それでも30度くらいまでは耐えられるが、それを超えるとクーラーのある部屋に退避せざるを得ない。

 昨日(7月6日)は、午前10時過ぎに自転車に乗り、20分かけて敬愛大学の研究室(客員3人の共同部屋)に来た。3号館の7階に研究室が並んでいて、土曜日は誰もいなくて、部屋でクーラーをつけると、25度に集中管理され、寒いくらいである。そこには最新のPCもあり、快適に過ごすことができる。研究室ということで、多少緊張感もあり、本もよく読める。ここが使えるのも今年限りなので、この夏は、避暑を兼ねて、研究室で多くの時間を過ごそうかと考えている。でも、1日誰にも会わず、誰とも話さず過ごすのは、退屈であることは確か。