本のある生活

以前に、「大学教員と本」と題して、下記のように書いたことがある。「旧世代の者には本のない生活は考えられない。本(棚)に囲まれた部屋にいると落ち着く。本の題を見ただけで、その書籍に書かれていたことが思い浮かび、読んだ当時の心情が蘇る。どんなに意匠を凝らした建築や部屋でも本(棚)がおかれていないと貧相に見える。どんな素晴らし自然や景色も、本(棚)に囲まれた部屋を超えることはできない。」(2022年1月25日、ブログ)。先に引用した内田樹氏のブログには、同様の心情が綴られていた。さらにその理由が深く考察され、図書館の機能についても書かれていた。その一部を転載する。

<人の家に行ったときに、しばらくいて息苦しくなってきて、なんとなく帰りたくなってしまう家というのがありますけれど、僕の場合は「本が無い家」がそうなんです。どれほど綺麗にしてあっても、長くいると息苦しくなってくる。酸欠になるんです、本が無いと。本というのは「窓」だからです。「異界への窓」というか、「この世界とは違う世界」に通じている窓なんです。だから、本があるとほっとする。外界から涼しい空気が吹き込んで来るような気がして。(中略)>

<無人の図書館をどこまでも1人で歩いてゆく。どこまでも続く書棚がある。そこには自分がまったく知らない作者の、まったく知らないタイトルの書物がどこまでも並んでいる。自分がそんな学問分野がこの世に存在していることさえ知らなかった分野の本が何十冊も並んでいる。それを見ながら、「そうか、ここにある書物のうち、僕が生涯かけて読めるのは、その何十万分の一だろうな。残りの書物とはついに無縁のまま僕は人生を終えるのだろう」ということを骨身にしみて感じる。(中略)/ 図書館の使命は「無知の可視化」だと思うんです。自分がどれほど無知であるかを思い知ること。今も無知だし、死ぬまで勉強してもたぶん無知のまま終わるのだ、と。その自分自身の「恐るべき無知」を前に戦慄するというのが、図書館で経験する最も重要な出来事だと僕は思います。/ 図書館というのは、「蔵書が無限である」ということが前提なんです。蔵書が無限であるので、あなたはこの図書館のほんの一部をちょっとかじるだけで一生を終えてしまい、あなたが死んだ後も、この巨大な図書館の中には、あなたがついに知ることのなかった叡智や感情や物語が眠っている。(中略)。/ 図書館がそこに立ち入った人間に教えるのはたぶん「無限」という概念なんです。そこに足を踏み入れた時に、おのれの人生の有限性とおのれの知の有限性を思い知る。これ以上教育的な出来事ってこの世にないと思うんです。(中略)/ 知的であることとはどういうことか、それを一言で言うと、「慎ましさ」だと思うんです。無限の知に対する「礼儀正しさ」と言ってもいい。自分がいかにものを知らないか、自分の知が届く範囲がどれほど狭いかということについての有限性の覚知です。>(内田樹)(http://blog.tatsuru.com/2023/09/09_0927.html)。