原民喜のこと(その2)

今日(21日)の朝日新聞の『天声人語』は、センター試験に出た原民喜の文章について取り上げていた。

「受験生は眼光紙背に徹するように読み、作者の「言いたいこと」を熟慮せねばならない」「普段の読書とは段違いの集中力で臨むのが入試である。美しい文章、深みのある文章に出会った時の印象もそれだけ強くなる」「描かれたのは一人の青年だが、背後にある無数の青年の命について考えさせられる」という指摘に共感する。

入学試験の文章 :普段の読書とは段違いの集中力で臨むのが入試である。美しい文章、深みのある文章に出会った時の印象もそれだけ強くなる▼そんな経験はもちろん受験生でなくても味わえる。お手元におとといの朝刊があれば、センター試験の国語にある原民喜(たみき)の「翳(かげ)」をぜひお読みいただきたい。のんびりした日常が、日中戦争でじわじわと変わっていく様子がそこにある▼作者の家に出入りしていた魚屋の青年は人なつっこく、周りに愛されていた。そんな彼が軍服を着て満州に渡り死に至る病を得てしまう。「善良なだけに過重な仕事を押しつけられ」たのではないかと作者は思いを巡らせる。描かれたのは一人の青年だが、背後にある無数の青年の命について考えさせられる。(朝日新聞 2020年1月21日朝刊「天声人語」より1部転載)

高齢者が運動(スポーツ)をする意味

(他人事ではないが)高齢者は暇な時間を(つまり日常を)どのようにどのように過ごしているのであろうか。働いていた時は、仕事や職場のリズムがあってそれに従っていればよかったが、仕事がなくなってから、どのようにして時間を潰し、生活のリズムを刻んでいるのであろうか。

私の周囲を見てみると、卓球やテニスをするのがメインの日課という人(高齢者)も多い。私が入っている「宮野木卓球同好会」のメンバーで、週に4~5回卓球をやっているという高齢者はかなりいる。また私が時々参加している「テニスの打ち方教室」は毎週火曜日の11時から2時間、コーチ付きで開かれる。そこに毎週必ず参加している人もいる。

 高齢者がこのような運動(スポーツ)への参加する時の心情を考えてみると2つあるように思う。1つは、それは仕事のようなものであり、その運動に参加するのは仕事に行く慣習(ルーチン)のようなものである。別に特に楽しいということでも苦痛ということでもなく、自分のやるべき仕事をこなすという感じである。仕事を辞めた後の仕事の代わりといってよい。もう一つは、このような運動(スポーツ)に今日参加できたことを幸せと感じるものである。自分の体調が悪かったり、家族に何か問題が生じていたら、このようにのんびり運動(スポーツ)などしていられない。今日の会に参加できたのは、自分の健康や周囲の平穏な日々のお蔭であると、感謝する。(この2番目の心情は健康な人、あるいは若い人や働き盛りの人にはなかなかわからないであろう。)