仙台の歴史探訪   水沼文平

一昨日友人達と花見に行きました。西公園、仙台二高、仙台一高は一部咲といったところで、花見にはなりませんでした。

仙台一高では屋内にある初代校長大槻文彦(国語学者・「言海」の編者)の胸像を見せてもらいました。去年の3月6日の先生のブログに「大槻文彦とネコ」を掲載していただきました。大槻玄沢(蘭学者)、子の 磐渓(漢学者)、孫の 文彦と続いた岩手県一ノ関(仙台藩)出身の学者一族です。それから近くの南鍛冶町にある泰心院に移築された仙台藩校「養賢堂の正門」を見に行きました。養賢堂は現在の県庁にありましたが、明治になり馬車が通れるような西洋門に作りかえたので有志の働きでこの地に移築がなったようです。養賢堂が生んだ林子平(開国兵談)、高野長英(蛮社の獄)、玉虫三太夫(奥羽越列藩同盟)、星淳太郎(額兵隊)、新井奥邃(キリスト者)、千葉卓三郎(五日市憲法)達がこの門を潜り勉学に励んだことを思うと感無量でした。(門と桜の写真を添付します)

その後、保春院前丁にある「保俊院」を訪ねました。保俊院は政宗の母(義姫)の諱(おくりな)です。義姫は  1623年に仙台城で死去、北山の覚範寺に葬られました。享年76才。政宗は1635年、母の十三回忌にあたり菩提を弔うため、若林城(政宗の隠居所)の付近に「保春院」(臨済宗)を建立しました。この保俊院に仙台人が忘れてはならない「玉虫左太夫(たまむしさだゆう)」の墓があります。1823年仙台に生まれ、藩校養賢堂に学び、24歳の時江戸に出て昌平坂学問所で学び塾長となった人物です。1860年には日米修好通商条約の批准書交換のために幕府使節の一員としてアメリカに渡っています。鳥羽伏見の戦いの後、新政府から仙台に会津追討が命じられますが、会津に同情した仙台藩はそれに抗し、三太夫は正使として会津に赴き、奥羽越列藩同盟締結に尽力しました。しかし藩論が薩長支持に一変すると、三太夫は新政府に捕えられ東京で切腹を命じられました。1869年4月14日 享年47歳です。お寺には仙台市の案内板があり、玉虫家の数基の墓は見つけましたが、三太夫の墓は確認できませんでした。家に帰ってネットで調べたら、墓は実在しており、表面に「玉蟲拙斎之墓」、側面には「明治二年四月九日逝歳四十六友人横尾某建以代墓成」と刻まれているとのことです。新政府にとっては重大な政治犯であり、遺族や友人達は、世を憚ってこのような墓にしたのでしょう。また確認に行こうと思っています。

最後は木ノ下の「陸奥国分寺跡」です。741年聖武天皇の発願で全国に建立された国分寺の一つで最北の国分寺です。広大な伽藍の跡を示す巨大な礎石に驚きました。当時仙台に住んでいた東北縄文人(蝦夷)の子孫はその壮大な建造物を見て恐れ入ってしまったのかも知れません。七重塔跡、政宗が再建した薬師堂などを見て帰路に着きました。

このような歴史探訪を二月に一度の割で楽しんでいます。その土地の歴史を前もって学習していくと楽しさも倍増します。(水沼文平)