「奥松島探訪の旅~日本人最初の世界一周 最後の武士~」              水沼文平

1月20日(日)、友人数人と奥松島を訪ねた。松島湾はカニの片方の第一脚が大きく 開いた形となっている。上の先端が宮戸島であり、下の先端が七ヶ浜町である。その ハサミの丸くなった内側に桂島、浦戸島、寒風沢(さぶさわ)島、朴島などの大きな 島があり、他に多くの小さい島が点在している。松島湾の最奥には瑞巌寺や円通院、 五大堂があり冬でも観光客で賑わっている。3.11でこれらの寺院を含む松島の中心部 の被害が少なかったのは松島湾に浮かぶ大小の島々が津波の緩衝帯になったからであ る。

石巻に向かう仙石線から離れ南に下ると野蒜海水浴場がある。この辺りは外洋に面し ており3.11の大津波で土地家屋が跡形もなく破壊されたところである。 狭隘な瀬戸を渡ると宮戸島である。この島には大高森という小高い山や嵯峨渓という 海に面した景勝地がある。

私たちの目的は「奥松島縄文村歴史資料館」の見学であ る。約6000年前の貝塚跡や縄文人の生活用品、装身具、さらには一家族の生活の様子 を映画で見ることができた。青森市の三内丸山遺跡と同様、東北縄文人が信条とした 「平和・平等・再生」の暮らしが良く理解できた。

宮戸島のすぐ西に寒風沢島がある。小学校低学年の頃、臨海学校でこの島に来た記憶 はあるが、思い出として残っているのは、ごはんをこぼして先生に叱られたことであ る。さてこの寒風沢島であるが、歴史的な人物や出来事で有名な島である。

ひとつは江戸時代、この島出身の津田夫(つだゆう)という船乗りが世界一周をした ことである。1793年11月、仙台藩の米を積んだ若宮丸が石巻から江戸へ向かう途中、 塩屋崎沖(いわき市)で暴風に遭い漂流、翌年の5月にアリューシャン列島に漂着し た。その後ロシア王朝の指示でユーラシア大陸を横断、1803年に首都サンクトペテル ブルグに到着、ロシアの南下政策の一環として日本に戻されることになった。大西洋 からホーン岬を回り太平洋に出て1805年に身柄を日本に引き渡された。津田夫他3名 は図らずも日本人初の世界一周を果たしたことになる。仙台藩一ノ関出身の大槻玄沢 が彼らの漂流をインタビュー、「環海異聞」として残している。なお江戸初期の支倉 常長は太平洋を渡りメキシコで陸路を大西洋に出て、スペイン・ローマに到着した。 帰路も同じ経路で、インド洋を渡っていないので残念ながら世界一周ではない。また 津田夫の前に大黒屋光太夫もロシアに漂着しているが、シベリアから戻っているので 世界一周とはならない。

もうひとつは1868年(明治元年)8月28日、開陽丸を旗艦とする榎本武揚が率いる幕 府軍艦がこの寒風沢島に入港した。榎本は会津から転戦してきた新選組の土方歳三な どと共に仙台藩との共闘を掛け合ったが埒が明かず、9月15日に仙台藩が西軍に降伏 したのをきっかけに北の新天地「北海道」に向けて出航した。この時、仙台藩の洋式 軍隊である星惇太郎が率いる「額兵隊」200名が榎本艦隊と行動を共にした。 函館の五稜郭を拠点として榎本軍は最初の内は西軍に対して善戦したが、大挙して押 し寄せる西軍に連敗し函館山麓にある市街も占領された。降伏に傾く榎本等をよそに 土方歳三は徹底抗戦を唱え、明治2年(1869年)5月11日、戊辰戦争の最後の戦場に なった箱館五稜郭防衛戦で西軍の狙撃を受けて戦死した。この時土方歳三に従った少 数の中に仙台藩士星惇太郎がいた。

暖かくなったら塩竃から船に乗って、寒風沢島に行ってみたいと思っている。旅の終 わりに塩竃の魚市場の中にある「食堂」に寄った。そこで「海鮮丼」を食べたが、極 めて美味であったことを付けくわておく。