学問と政治の関係について

朝目覚めてまだうとうとしている時、昔読んだ本のことを思い出すことがある。今回、C・ダクラス・ラミス氏の宇宙船の話を思い出した。(『影の学問、窓の学問」晶文社が今すぐ見つからずうろ覚えの内容だが)、消滅する星の大人達が、大きな宇宙船に乗り他の星に移住することになった。しかしそれは何十年も続く退屈な旅で、よほど精神の強い大人でないと耐えられない。そこで大人たちは生まれてくる子どもたちに、世界はこの宇宙船だけから成り立ち外の世界はないと教え、この苦難を乗り越えようとした。しかし、ある時このことに疑いを持った子どもがいて、いろいろ調べ宇宙船には外があるという真実を発見し、歓喜し仲間に告げた。しかし、大人たちは彼を「気がおかしい子ども」として隔離したという話。この話は、政治と学問との関係として読める。世の中を平穏、平和に治める為に、国民に対して時に真実を隠し虚偽を伝えるのが政治である。それに対して学問は、いかなる時も真実を追究する(「窓の学問」)。

内田樹は、最近のブログに次のように書いている。―<研究者というのは、「知らないこと」を知りたいと願い、「理解できないこと」に遭遇すると心が震え、私見を伝えるために道行く人の袖をつかんで「お願いだからわかって」と懇請するような人間のことだからである。/ 理に合わないことに遭うと「アラーム」が鳴動する。「理に合わない」のは、出会ったものそのものが不条理である場合もあるし、私自身の知的枠組みが狭くて、その対象を受け止め切れない場合もある。後者なら、私の知的枠組みをいった解体して、再構築する必要がある。研究者というのはこの作業を繰り返す生き物である。だから「理に合わないこと」に対する感受性はつねに高く設定されている。誰より先に「理に合わないこと」に感応するのが仕事である。「炭鉱のカナリア」のようなものである。/ カナリアはガスが発生するとまず死ぬ。だとすると、研究者は世の中に毒が充満し始めた時に「まず死んでみせる」ことが仕事なのかも知れない。>(内田樹 「研究者とカナリア」ブログ2025-12-07 、http://blog.tatsuru.com

私も研究者としては、いかなる時も真実を追い求めるという姿勢が大事と思うが、一方で、今教育の世界で「アクティブ・ラーニング」が言われ、持っている知識や技術を世にいかに生かしていくのかということが問われている。そうなると、真実を暴露するだけでは終わらないように思う。政治的に真実を「隠す」という考えも生まれざるを得ない時や               状況もあるのではないか。そのような時、研究者はどうするのか。