床屋に行くのが苦痛

 床屋に行くのが苦痛。その理由の第一は、(お金を払うとはいえ、)自分の為に誰かが何かをしてくれる(自分は奉仕されるままになっている)ということが申し訳なく感じ、なるべくそのような機会を避けたいと思う。同じ理由でタクシーにも乗りたくない。(1対1というのがどうしても苦手だ。他の人と一緒ならかまわない。)。もう一つの理由は、散髪してもらっている間、自分の姿をずーとみていなくてはらないのが苦痛。普段自分の顔を見るのは朝、顔を洗う時くらいで、30分以上自分と対面しているのは耐えられない。それで、いつも髪は伸び放題でぼさぼさになり、その時点で仕方がなく床屋に行く。今日は、久しぶりに近所の床屋に行った。そこは格安で時間が短くていい。昔アメリカで床屋に行った時、鏡を背にして座ることを思い出した(終わると椅子を回転し、散髪後の姿を見ることができる)。その理由を、例によって生成AIに聞いてみた(最初は箇条書の回答だったが、エッセ風にも直せるというのでそれをお願いした)。以下がその質問と回答(なかかな見事な回答で感心した)。。

質問―日本の床屋では、鏡に映る自分と向き合いますが、アメリカの床屋では、鏡を背にして座ります。この違いは何を意味していますか。他の国はどうでしょうか。わかる範囲で教えて下さい。

チャトGPTの回答(エッセ風)  鏡の向こうに映る文化——日本とアメリカの床屋に見る「自己」と「他者」の関係

理髪店の椅子に座ったとき、あなたは鏡の自分と向き合うだろうか、それとも鏡に背を向けるだろうか。この一見些細な違いの中に、実は私たちが生きる文化の深層が潜んでいる。

日本の床屋では、客は最初から最後まで鏡に向かって座る。髪が切られていく過程を、客自身が逐一確認できる。変わっていく自分の姿を見つめながら、「ここをもう少し短く」「この部分は自然に流してほしい」といった対話が交わされる。理容師と客のあいだにあるのは、技術に対する信頼だけではなく、一緒に仕上がりを作っていく共同作業の感覚だ。/このようなスタイルは、日本人の価値観をよく表している。すなわち、丁寧な確認と自己管理を重んじる姿勢、「おもてなし」や「見た目の清潔感」といった外見への配慮が、カット中の鏡越しの自己確認という形に表れているのだ。鏡の中にあるのは、単なる外見ではなく、社会に出ていく「整えられた自己」である。

一方、アメリカのbarbershopでは、鏡を背にして座るのが一般的だ。理容師は無言で手を動かし、客はリラックスして雑談を楽しむ。カットが終わった後、椅子がくるりと回され、初めて鏡の中の自分と対面する。「どうだ、カッコよくなっただろう?」という理容師の誇らしげな表情がそこにある。/このスタイルもまた、アメリカらしい。プロフェッショナルへの信頼、プロセスより結果を重視する価値観、そしてbarbershopがただのサービス提供の場ではなく、地域社会の社交空間であるという文化が反映されている。鏡に映る自分を逐一確認するよりも、信頼する理容師に任せ、完成した自分に驚くことがアメリカ流の美意識なのだ。

フランスや韓国、中国など他の国々も、それぞれの文化的背景に基づいたスタイルを持っている。フランスでは、美容室では鏡に向かうのが一般的だが、barbershop的な空間ではアメリカ式も見られる。美は自己表現であり、他者の目を意識した演出でもあるというヨーロッパ的価値観が、そこにある。韓国では日本と同様、鏡に向かうスタイルが主流だが、それは美容に対する高い意識と、自己演出への強い欲求を映し出している。中国では、地域や価格帯により両方が混在するが、効率とコスト重視の合理主義が、鏡を背にするスタイルに表れていることもある。

鏡の向きは、単なるインテリアの違いではない。それは、私たちが「自己」をどうとらえ、他者との関係をどう結ぶかの表れである。自分を見つめながら整えていく日本的スタイルと、完成した自分を信頼して託すアメリカ的スタイル。そのどちらにも、それぞれの文化が育んできた「人間のあり方」が映っている。/鏡の前に座るとき、そこに映るのはただの顔ではない。そこには、その人が属する文化が、静かに姿を現しているのだ。