英語の民間試験導入と教育の機会均等

教育は社会階層の再生産を行っているという指摘を教育社会学はよくする。そのメカニズムや実証的なデータでそれを明らかにすることが多いが、その事実を追認しているわけではない。社会階層と教育の隠れた関係(メカニズム)も暴露し、その現状を正そうとする。つまり、「教育基本法」の第3条、第4条にある「教育の機会均等」の原則を実現しようと、教育社会学の研究者も考えている。

その意味で、来年から文科省が実施しようとしている大学入試の英語民間試験は、教育の機会均等の観点から危ぶむ声は、高校現場からだけではなく、教育社会学の研究者からも上がっている。教育格差を助長し、階層の再生産を強めるのではないかと。(1029日の朝日新聞朝刊の記事の一部を転載しておく)

<小林雅之・桜美林大教授(教育社会学)は「身の丈発言は、家計に応じてという意味であれば、自助努力主義そのもの。国がすべきことと全く逆の発言であり、問題だ」と言う。教育基本法には「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」とある。小林教授は「国はもっと支援策を講じるべきだ。全国高校長協会が延期を求めるなど、試験そのものへの批判も強い。再検討した方がよい」と言う。大内裕和・中京大教授(教育社会学)も「経済格差と地域格差。今回の大学入試改革が内包する問題点を大臣自ら明らかにした」と話す。大内教授は萩生田氏が「あいつ予備校通っててずるいよな、というのと同じだと思う」と語った点を問題視。「予備校費用は完全な私費負担だが、英語民間試験は公的な制度に関わる私費負担。公の制度が格差を助長させている点が問題>。<「東大の中村高康教授は「制度的欠陥を抱えたままタイムリミットが来た。とにかく共通テストはいったん止めるべきだ」と訴えた。>

追記 今日(111日)の朝のNHKニュースによると来年度4月から実施予定の大学入試の為の英語の民間試験が延期になったとのこと。文部科学省の方針が、研究者や教育現場の声によって、大きく変更されたという意味では、このことだけでなく、教育政策に関して、とてもいい前例になると思う。教育政策が上意下達ではなく、下からの意見も考慮されることを示したもので、多くの人の励みになると思う。文部科学省の責任を問うというよりは、文部科学省の柔軟性を評価したい。

久しぶりの東京


東京駅に人を見送るついでがあったので、久しぶりの東京駅の丸の内側を少し散歩した。丸の内側が整備され、先に皇居(の門)が見え、広々としていて観光に適している場所になっているのに感心した(皇居参観は当日受付で毎日先着600名が見ることができる模様https://www.kunaicho.go.jp/event/sankan/sankaninfo.html)

東京大学教育学部70周年記念式典が東大の安田講堂であるというので、ついでに少し覗いた。安田講堂に入るのは、東大「紛争」の時の大河内総長と学生・院生との大衆団交以来なので、半世紀ぶりくらい。天井は高いが、意外と狭く、椅子はふわふわと座り心地はよい。祝辞を述べた東大総長、文科省の事務次官、教育学部長の話が、用意してきた原稿を淡々と読む感じで、歴史的な事実をきちんと押さえようという誠実さは感じられるが、話し方で人を惹きつけようという感じは全くなく、これが東大流なのかと思った。東大以外でこのような話し方では誰も話を聞いてくれないのではないかと思った。立派な「東京大学教育学部創設70周年記念誌」が発刊されていたが、現職教員のメッセージはあっても、これまでの教員(教授、准(助)教授、助教(手))名簿もなく、記録をきちんと残す記念誌にはなっていないことに不満を感じた。

「主体的」の意味

「主体的」の意味を国語辞典で引くと、「活動の中心になるさま。自主的」(岩波国語辞典)とある。ウェブ辞典で引くと下記のように詳しい。

<「主体的」の意味は「ある行動や意見などをなすとき、自分の意志や判断によって働きかけるさま」です。他のものに影響されるのではなく、状況を見ながら、自己の純粋な立場によって行動する様子を表します。「主体的」はどんな状況でも、やるべき事を行うだけでなく、自分の意思で行動することを表す場合に使います。何をするべきなのか明確になっていない状況で、自分の考えを活かして行動する際に用いるのが適します。「主体的」は「どういった行動をするか」ではなく、「どういった理由で行動するか」という点を重視しています。例えば、「食べたいから食べる」といった訳で食べることは、「主体的な行動」とは言いません。「栄養を取るため、食べ物を食べる」とはっきりとした目的を持ち、自分から行動した時は「主体的な行動」と言えます。例文①彼女は主体的に判断することができるので、とても頼りになる。②もう少し意識して、主体的に考える力を身につけられるようにしよう。③主体的に行動するためには、何事も恐れずに挑戦していく気持ちが大事だ。(https://eigobu.jp/magazine/shutaiteki-jishuteki

幼児のイヤイヤ期や思春期の反抗期や、思春期の母と娘の葛藤(添付参照)も、子どもの主体的な行動への萌芽なのであろうか。

精神科医のフロイトが観察した、1歳半になる男の子が、玩具を隠してはそれを見つける遊びを繰り返すのは、玩具を母親に見立ててそのような遊びをし、母親の不在に耐えるだけでなく、母親の不在を自ら演出して、それを乗り越える主体性の確立の萌芽である、という解釈を山本雄二氏はしている。(「クイズ番組の精神分析」『クイズ文化の社会学』世界思想社、2003年。山本氏は「拘束するものに対する拒否、そこからの解放」という言葉を使っているが。120頁)。 「主体的」をめぐっても、いろいろなことが考えられる。

「主体的な学び」について、中央教育審議会答申(平成 28 年 12 月)は、次 のように示している。 <学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら、見通しを持って粘り強く取り組み、自己の学習活動を振り返って次につなげる「主体的な学び」が実現できているか。 子供自身が興味を持って積極的に取り組むとともに、学習活動を自ら振り返り意味付けたり、身に付いた資質・能力を自覚したり、共有したりすることが重要である。>(何か,もとの言葉の意味から離れたことを、たくさん羅列しているような気がする。お役所言葉は困ったものだ)

冴えたトーク

以前にも紹介したが、Shinya talk(藤原新也の公開トーク)は、会員制トークCat walkの一部が転載される形で、1か月に1度くらいの割合で更新されている。藤原新也は1944年3月生まれなので、75歳になっていると思うが、相変わらず元気で、冴えたトークを書いている。(一部転載)

<オリンピック東京開催が決まった折の森喜朗と小池百合子の陰鬱なバトルは記憶に新しいが、その後その怨念は立ち消え、お互い仲良くやっているのかと思いきや、森は小池の背中からバッサリと後ろから怪刀を振り下ろした格好の今回の出来事を見ると、国民不在の陰湿なイジメ行為が白昼堂々お国のトップで行われているという見たくもない風景が目の前に広がる。(中略)今回の一件を見るにイジメ問題は子供の世界にとどまらず、教師の世界にもはびこっていたという神戸の教師によるイジメ問題に行き当たり、この国は下は小学校、上は国会議員までイジメのはびこる陰湿国家と言わざるをえ(ない)。>、

www.fujiwarashinya.com/talk/

「主体的・対話的で深い学び」について

新しい学習指導要領の「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)の具体的な姿はなかなか描けない。教育現場からもさまざまな実践例が提示されているので、それをみて考えるしかないであろう。

「対話的」に関しては、授業以外の場でも、いろいろなところで実践されているように思う。何かイベントを開催するとき皆で相談して作りあげていくのは「対話的」ということであろう。個人だけでやったり上の指示に従いそれぞれの部署や個人がそれを実行するだけであれば「対話的」にならない。皆で相談して作り上げてこそ、個人単独ではできないことができる。また個人が単独でやっているようでも、他者を意識しやる場合は「対話的」である。

音楽の世界でも、オーケストラの演奏や伴奏は、「対話的」なもので、お互いの音に刺激を受け合い、また皆で作りあげていくものであろう。以前にブログでとりあげた(9月5日)の上白石萌音の歌on my own のオーケストラとの共演も、一つの音楽を皆で作り上げていくすばらしさを彼女がインタビュの中で、「ひとりよがりではなくみんなで作っていく貴重で、贅沢なもの」と語っていた。(you tube も再掲)

話は脇道にそれてしまうが、上白石萌音のon my ownの曲がよかったので、その歌詞の意味を調べてみた。ネットの遠藤雅義の解説の一部を転載する。その内容は少し悲しいものであるが、「主体的で深い」ものであること感じる。

<映画・ミュージカル『レ・ミゼラブル』の劇中歌「On My Own(オン・マイ・オウン)」とはどういう意味なのでしょうか。on my own のイメージは「自分自身がもつリソース(スキルや資産など)に頼って」です。on my own の主な用法は「独力で」「独りきりで」「自らの意志で」です。レ・ミゼラブルの劇中歌「オン・マイ・オウン(On My Own)」は、「愛する男性の笑顔を見たいがゆえに、その男性の『別の女性への愛』を応援してしまう、そのような哀しい女性の心境を歌った歌」です。(冒頭の on my own の意味) On my own. Pretending he’s beside me. All alone. I walk with him till morning. Without him. I feel his arms around me. (訳)独りでも大丈夫、彼が私のそばにいるような振りをするから。本当に一人だけど、私は朝が来るまで彼と散歩するの。彼はいないけれど、私は彼の腕で包まれているように感じられるから。 冒頭の on my own は「独力で」の用法に近いニュアンスを表しています。(最後の on my own の意味) Without me. His world will go on turning. A world that’s full of happiness. That I have never known. I love him. I love him. I love him. But only on my own.(訳)私がいなければ、彼の世界はきっとうまくいく。世界は幸せで満ち溢れるの、私がこれまで一度も経験したことがないような。彼を愛してる、彼を愛してる、彼を愛してる。本当に独りぼっちで。 最後に出てくる on my own は「独りきりで」の用法に近いニュアンスを表しています。冒頭では「独りでも大丈夫」と気丈に振る舞っていましたが、最後には「本当に独りぼっちで」と、どうしようもない現実を自分自身に言い聞かせているような感じになります。それでもタイトルに On My Own を持ってきている理由は「私は自らの意志でこうすると決めたんだ」という決意を表しているからです。>(https://www.english-speaking.jp/meaning-of-on-my-own/