教科書の電子化について

これから学校で,児童・で生徒が使う教科書は電子化(タブレット化)するのであろうか。
毎日新聞が、そのテーマで記事を掲載し(10月22日)、中央教育研究所の「デジタル教科書調査」のデータも紹介され、その執筆メンバーの加藤幸次先生(上智大学名誉教授)の的確なコメントも載っている。

ムベ

実家の隣との垣根に、赤いイチジクのような実を着けた蔓草がある。隣の人に聞いてみたら、アケビ科の「ムべ」の果実だという。ネットで調べてみた。

ムベ(郁子、野木瓜、学名:Stauntonia hexaphylla)は、アケビ科ムベ属の常緑つる性木本植物。別名、トキワアケビ(常葉通草)。方言名はグベ(長崎県諫早地方)、フユビ(島根県隠岐郡)、イノチナガ、コッコなど。
日本の本州関東以西、台湾、中国に生える。柄のある3~7枚の小葉からなる掌状複葉。花期は5月。花には雌雄があり、芳香を発し、花冠は薄い黄色で細長く、剥いたバナナの皮のようでアケビの花とは趣が異なる。10月に5~7cmの果実が赤紫に熟す。果皮の内側には、乳白色の非常に固い層がある。その内側に、胎座に由来する半透明の果肉をまとった小さな黒い種子が多数あり、その間には甘い果汁が満たされている。果肉も甘いが種にしっかり着いており、種子をより分けて食べるのは難しい。主に盆栽や日陰棚にしたてる。食用となる。日本では伝統的に果樹として重んじられ、宮中に献上する習慣もあった。 しかしアケビ等に比較して果実が小さく、果肉も甘いが食べにくいので、商業的価値はほとんどない。茎や根は野木瓜(やもっか)という生薬で利尿剤となる。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%99)

社会学的類型

 社会学の1つの面白さは、少し極端な類型作って、現実をみるところにあるのかもしれない。
 新進の社会学研究者・阿部真大著の『地方にこもる若者たち』(朝日新書、2013年)は、そのような類型が随所にあり、面白い。
 地方の若者にとって、イオンモールとユニクロが、休みの日に過ごす場所として、それも「非日常の余暇としてではなく、日常生活の延長線上に」位置づけ、ほどほどの満足を得ているという分析には、感心した。
 
「80年代 反発の時代 BOØWY」→「90年代 努力の時代 B‘z」→「90年代後半 関係性の時代 Mr. Children」というおおざっぱな類型化にも、感心した。
 80年代は、管理社会に反発し、そこから逃走を志向する時代。それを見守る女性(母性)もいる。「社会への反発や女性からの承認によって退屈な世の中をやり過ごす時代」(p106).
 90年代は、管理は柔軟化し、反発すべき対象を失い、とにかく努力して何かを達成する時代。足かせになる女性(母性)はいらない。「社会への反発というモチーフは一切なく、現状のシステムのなかでいかに生き抜き、自分の夢を叶えるかということが歌われる」(p.115)。大きな物語から小さな物語の時代に移ったのであろう。
 90年代後半は、「不安定な社会において変わらないもの(キミとボクの世界」を探し求め、そこに精神の安らぎを見出す『関係系』](p.128)の時代だという。
 歌詞の分析から、このような鮮やかな類型を導き出す、新進の社会学研究者のセンスに脱帽。
 さっそく、You Tube で、この3つのグループの歌を聴いてみた。ミスチルを除き、歌詞が聞き取りにくく、この分析が妥当なのかどうかわからなかった。
 この3つのグループは、その時代の若者に圧倒的な人気のあったバンドのようだが、私には、どこがいいのかピンとこない。歳なのであろうか?。若者を語る資格はないのかもしれないとも思った。しいていえば、BOØWYがハードロック調で、自然に聴くことができる。
 歌に詳しい娘に、BOØWYやB‘zの音楽を聴くのかと聞いてみたが、まったく聴かないという。もうこの時代、一世を風靡する歌というものはなく、好みが分化しているのかもしれない。(とはいっても、吉田拓郎やマドンナの曲を聴いていると、「なんて 古い曲を聴いているの?」と、娘から疑問と非難の混じったまなざしが向けられる。)

コンサートのような学会の部会

渡部真氏がブログ「ユース・カルチャーの社会学」の最新号の中で、素敵なコンサート(ライブ)を聴いた余韻のようなものが残った学会の部会ことを、書かれている(以下、そこからの転載)。こんな、部会が企画できたらいいと思う。

<ところで、昨日、慶應大学で開かれた日本社会学会の大会を見に行きましたよね。
K はい。
W 井上俊先生に、3人の若手の研究者が質問をして、井上先生がそれに答えるという部会がありましたけど、あれはどうでしたか?
K 面白かったですね。
W 僕は、とてもすばらしいなあと思いながら聞かせてもらいました。文学と社会学の関係や、鶴見俊輔や作田啓一についての話が中心でしたが、3時間があっという間にたってしまいました。実は、生の井上俊を見たのは初めてだったんですけど。
K 学会のセッションに出ているというより、井上先生を主人公にしたドキュメンタリー映画を見ているような気分でした、
W 井上先生の心優しいところや、若者を力強く信頼していこうという意思がとても強く感じられました。素敵なコンサートを聞いたあとのような余韻がいつまでも残りました。学会の大会を聞きに行って、ああいう経験が出来るのは、とても珍しい事だと思います。(http://sociologyofyouthculture.blogspot.jp/)(10月13日)

 井上俊氏は、作田啓一の弟子ということでも有名だが、すぐれた著作が数多くある。氏の話は、私はこれまで、教育社会学会の課題研究(「青年文化論」だったと思う」)で1回、社会学会で1回(ジェンダー論のシンポジウム、だったと思う)聞いている。後者では、「大学を完全消毒してしまっては、文化の香りが消えてしまう」というような話を井上氏はされて、ジェンダー論者から総スカンを食らい、気の毒だったのを印象深く覚えている。井上氏の論文や人柄から、そんな非難が出るはずがないのに、ジェンダー論者ってなんだろうと感じてしまった(私自身はジェンダー論には理解があるつもりなのだが)。

漱石「こころ」の解釈

朝、時間がなく、なかなか「朝ドラ」を見る機会がないが、今回の「朝ドラ」(「ごちそうさん」)は、本郷が舞台で、女学生の家に帝大生が下宿して恋が芽生える話しらしい。それは、漱石の「こころ」と同じではないか、と作家の林真理子が書いている(「夜ふけのなわとび」週刊文春10月24日号、p54-55)。その「こころ」解釈が面白い。

「下宿屋の奥さんは日清戦争で戦死した軍人の未亡人なのだ。、、まあ、最初からそういう意図があったと思われ、小説では結構したたかに描かれている。、、この家では、みんな一緒にご飯を食べるのだ。お嬢さんはものすごい美人とある。、、若い帝大生が二人が、三角関係に苦しむのは当然のなりゆきなのだ。強いていえば素人下宿を始める一見上品な未亡人がいけない。下宿人をステップアップに使うからだ。、、、時折響くお嬢さんの琴の音。静を破るパフォーマンスの効果を、下宿屋の未亡人とお嬢さんは知っていたに違いない」

漱石の「こころ」は、高校の国語の教科書にも取り上げられ、友情と恋愛の葛藤や、男の同性愛的傾向(土居健郎)、ジラ―ルの三角関係モデル(作田啓一)などで、解釈されることが多いと思うが、下宿の奥さんとそのお嬢さんの策略という解釈は珍しいのではないか。高校の教室で、このような解釈が出たら、どう扱うのか?