本の紹介、天才との比較

その本を読みたくなるような、本の紹介を書けると言うのは凄い。
前にも紹介したが、渡部真さんと小池さんの対談は、そのような気にさせる内容に満ちている。
最新の対談は、アントン・チェーホフのワーニャ伯父さんについて(http://sociologyofyouthculture.blogspot.jp/)。チエホフ全集をほしくなったほど。

そこで紹介されている、下記の内容にドキ。
(歳とった)大学教員の多くが思い当たってしまうのではないか。

<ワーニャ  (前略)考えなくちゃならないのは、次の点だ。それはね、まる二十五年のあいだ、やれ芸術だの、やれ文学だのと、書いたり説教したりしてきた男が、そのじつ文学も芸術も、からっきしわかっちゃいないという事実だ。やっこさん、二十五年のあいだ、やれリアリズムだ、やれナチュラリズムだ、やれくしゃくしゃイズムだと、人様の考えを受売りして来ただけの話さ。二十五年のあいだ、あいつが喋ったり書いたりして来たことは、利口な人間にはとうの昔からわかりきったこと、バカな人間にはクソ面白くもないことなんで、つまり二十五年という月日は、夢幻泡沫に等しかったわけなのさ。だのに、やつの自惚れようはどうだい。あの思いあがりようはどうだい。こんど停年でやめてみれば、あいつのことなんか、世間じゃ誰ひとり覚えちゃいない。名もなにもありゃしない。つまりさ、二十五年のあいだ、まんまと人さまの椅子に坐っていたわけだ。ところが見たまえ、あいつはまるで、生神さまみたいに、そっくり返っていやがる。
 (ワーニャ伯父さん「第一幕」より)

でも、このセリフを読んで、私が思い浮かんだのは、漱石の「こころ」ではなく、映画「アマデウス」に出てくる天才モーツアルトに対する先輩教師サリエリの気持ちである。天才と比較されるのでは、凡人はかなわない。

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