水沼文平さんのご冥福を祈ります

このブログに時々、寄稿してくれていた水沼文平さん(前中央教育研究所所長)が、先月はじめに亡くなられたという知らせを受けた(享年73歳)。突然のことに茫然として、言葉もない。水沼さんと親交の厚かった人も多いので、私以上の驚き・哀しみの思いの人も多いのであろう。

水沼さんは中央研究所の所長時代、私たちの「教育調査研究会」の会合や合宿にも毎回出てきて下さり、有益な意見を出してくださった。遠方での我々の学会発表も聞きに来てくださり、また研究メンバーの個人的なことも気遣ってくださった。

親分肌の筋の通った生き方をする人で、また読書家であり、いろいろなことを学ばせていただいた。

私のブログにも、時々格調高い文章や歴史散歩の写真などを寄せていただいた。最後は、201948日の「仙台の歴史探訪」。(その前は、330日)

退職後は故郷の仙台に帰り、水泳、自転車、英会話、同窓会幹事などで、元気に過ごしている様子で、頻繁にメールをいただいていた。最後にメールをいただいたのは、2か月前の428日で、研究会メンバーや私の家族への気遣い、仙台の様子などが温かく穏やかなトーンで書かれていた。その後、私からのメールに返事がないのでどうしたのか心配していた。突然の訃報に言葉もない。もう少し、いろいろお話ししたかった。

水沼さんのご冥福を心よりお祈りします。安らかにお眠りください。

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地下を掘る―普遍性を探す

ものごとを見る見方には、鳥観図と虫観図の2つがある。鳥観図は、ヘリコプターに乗って森を見下ろすようなもので、虫観図は地上を這いずる回る虫の視点で木の葉1枚1枚を見るようなものである。どちらも同じものを見るにしろ、見えるものが違っている。でも目指すものは、普遍性である。

普遍性を探すという面では、もう一つの方法がある。それは、一つの場所から地下を深く掘るという方法である。どの場所であろうと深く掘っていくと、地下水に行き当たる。それが普遍性である。ケースを扱う研究やカウンセリングは、個別を扱いながら、多くの人に共通する普遍性(地下水)を探ろうとする。

そのような個別を深く掘り地下水を探すという方法は、吉本隆明がどこかで言っていたように思う。同じことを村上春樹が言っているとのことを内田樹のブログから知った。それ箇所を、転載しておく。(blog.tatsuru.com/2017/05/14_1806.html )

「生まれつき才能に恵まれた小説家は、何をしなくても(あるいは何をしても)自由自在に小説を書くことができる。泉から水がこんこんと湧き出すように、文章が自然に湧き出し、作品ができあがっていく。努力する必要なんてない。そういう人がたまにいる。しかし残念ながら僕はそういうタイプではない。自慢するわけではないが、まわりをどれだけ見わたしても、泉なんて見あたらない。鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を探り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。」(『走ることについて語るときに僕の語ること』、文藝春秋、2007年、64-65頁)「「書くことによって、多数の地層からなる地面を掘り下げているんです。僕はいつでももっと深くまで行きたい。ある人たちは、それはあまりに個人的な試みだと言います。僕はそうは思いません。この深みに達することができれば、みんなと共通の基層に触れ、読者と交流することができるんですから。つながりが生まれるんです。もし十分遠くまで行かないとしたら、何も起こらないでしょう。」(「夢を見るために毎朝僕はめざめるのです」文藝春秋、2010年、155頁)

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敬愛大学 「教育原論」13回 講義メモ(2019年7月11日)

今日は、いつもと違う形式で行いたいと思い、4人のグループを作ってもらいました。そこで、話しあってほしいことは、後で申し上げます。 その前に、2つほど。

皆さんの私の授業に対するアンケートの結果を読ませてもらいました。例年、私の授業評価の点は、他の敬愛の先生方に比べがあまり高くなくて(敬愛の先生が授業熱心でよすぎるのかもしれない)、いつも見る気が起こらないですが、改善点を修学支援室に出さなくてはならないので、読ませていただきました。それに対する感想を申し上げます。(ただ、千葉大学名教授の宇佐美先生は、無知な学生が高度な大学教育の内容を評価する授業評価は、まったく無意味と言っていますが―これはつぶやき、学生には遠回しに話す)。

今年は全体に、授業の内容に興味を持った人が多く、ほっとしています。(「授業に大いに満足」58%、「概ね満足」36%)。講義内容はかなり専門的なものなので(私が上智大学に勤めていた時2~4年生に話した内容より高度になっていると思います)、理解してくれる人がどの程度いるのか心配でしたが、毎回の皆さんのリアクションを読むと、私の話についてきてくれている人が多くいることがわかります。 「もっと自信をもって話して下さい」という励まし(お叱り?)ももらいました。私が自信なげに見えるかもしれませんが、そんなに謙虚なわけではありません。私たち大学教師は、原稿を書くとき、自分が一番この分野の専門家という意識で書いています。私が最近書いた短い原稿(「内外教育」掲載)に対して、「辛辣ですね」と先輩の先生から言われました。授業でも同じつもりです。

授業へのコメントな中で、いつも同じような形式で飽きるというものもありましたので、今日は、グループで、いつも話さない人と話してもらいようにしました。それで、私の方で、男女混合のグループを11作りました。皆さんは決まった仲良しグループができて、普段話す人が決まってきているのではないでしょうか。今日は普段あまり話したことがない人とも話してもらいたいと思いグループを作りました(「こんなことまで大学教師は気を遣うのか」という声が聞こえてきそう)。テーマは、ジェンダーのことなので、異性の意見を聞いてください。その結果をグループ1枚のリアクションにまとめ、後でその1部を黒板に書いて説明してもらいます。 

話し合いの材料になること少し説明します。配布資料(添付)を見てください。(以下、多賀太「男子をめぐる問題、上野千鶴子「セクシーギャルの大研究」、上智大学学生「ラブソングに見られる女性心理の変化について」、について説明する)

教育原論リアクション (7月12日) ジェンダーと教育(その2)

1 男と女のどちらが生きづらいか。生きやすいか。その理由。 2 コマーシャルで、男と女の役割や関係はどのように描かれているか? 3 今の歌では、男と女の役割や関係はどのように描かれているか?4 女性が男性と同じように、社会で活躍できる為に、どのようなことがなされればいいか。5 その他ジェンダーに関するテーマを自由に選んで議論する。

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教育原論(第12回) 2019年 7月5日 ジェンダーと教育 講義メモ

まず、前回のリアクション見てください。教師について(その2)ということで、教師の多忙化とか、文部科学省のチーム学校といういろいろな人を学校に入れる試みを説明しました。ただ、教師の多忙化や大変さはあまり変わらないようで、皆さんも教職に就くのなら相当の覚悟が必要です。ただ、それは個人が努力するとか耐えるとかすればいいという「自己責任論」で考えるのではなく、周囲の人との連携や社会や学校の変革も考えるということも大事です。

今、学校だけでなく就労の働く場がかなり過酷になっていると思います。今大手のコンビニチエーン店のフランチャイズ契約がとてもひどくて、コンビニの店長が24時間休みもなく、利益をほとんど本部にもっていかれ、無償で働かされるシステムになっているということをyou tubeで見ました。日本の中堅や底辺で働いている人がきちんとしたいい仕事をしているにも関わらず、その人たちを痛めつけ、大企業や上の人ばかりが得をする仕組みになっている、日本はこれから大丈夫なのか、という内容でした。

今日のテーマは「ジェンダーと教育」です。テキスト「教育の基礎と展開」第9章参照してください。

ジェンダーとは何か(定義)。テキスト121ページや資料Bにも説明がありますので、それらを参照してください。ジェンダーは、生物学的なものではなく、社会的なものだということです。ただ、私たちは生物学的な決定論を信じているところがありますし、生物学的なものと社会的なものは関係していますので、なかなか理解が難しいと思います。カタツムリは両性具有で、人間も最初は全てメスで、オスとメスというのは、生物学的にはそんなに大きく違っているものではないのに、社会的には男と女で大きく2分されているということのようです。ただ最近になって、性の多様性についてはいろいろ認められるようになっていますので、教師を目指す皆さんも伝統的な考えに捕らわれることなく、新しい考えを取り入れていただきたいと思います。

そのことは、資料Aの上野千鶴子が「セックスとジンダーのずれ」で、社会学的な考えを明確に述べています。生まれた時、性の判定を間違えられ、思春期になってそのことに気が付いた時、その後の人生をどちらの性で生きていくのがいいのかという問いがたてられています。普通、生物学的な性に合わせれば自然でいいと考えがちですが、実際はその逆で。性転換の手術をしてでも、思春期までに形成された社会的心理的な意識(性自認)の方に合わせた方が生きやすいという例が多いと説明されています。

学校において、男女で教えられることや指導の仕方が違うことはありますか。カリキュラム、部活動、生徒会活動、進路指導について考えてください。資料Bの木村涼子氏の文章(「ジェンダーの視点から現代社会を読む」)を読むと、現在カリキュラムは男女平等になっていますが、その内容は男性優位であったり、教師が男子の生徒に高い期待をかけ、女子の進路は文系のほどほどがいいと考え指導してしまう様子が書かれています。このように感じたことはありませんか。日本の社会で、なぜ上位の地位を男性が占め、女性が少ないのでしょうか。たとえば、女性校長は少ない(テキスト127ページ、図9-1)。その理由は?、女性の能力が低い、女性にリーダーシップ能力がない、女性は子どもを産む、子育てに忙しいなどがあるのでしょうか。女性にはガラスの天井があると言われていますが、その理由を考えてください。

女性は、どのような生き方や考え方をすれば、男性と同等となり、力を発揮できるのでしょうか。小倉千加子『結婚の条件』(2003年)は、16年前の若い人の考えを紹介していますが、どう思いますが? 少し古い感じはしますね、今は、もう少し男女平等、堅実になっているように思います。

マドンナという歌手について皆さんどのように思っていますが、私は最初品がないなと思い聴きもしなかったのですが、私の友人の山本雄二さんが訳した本『抵抗の快楽』(J.フィクス著)の中に、マルドンナに関するカルチュラル・スタディーズの優れた分析があり、こんな人だったのかとびっくりしました。男性に従う弱い女性の生き方の真逆の生き方をしている人で、「男性社会の既成の記号表現を使いながら男性中心の記号内容を拒絶し、あざけり笑うことで、女性も自分の力で自分らしく生きることができるのだということを実証してみせているのである」と描かれています(マドンナのマティリアル・ガールとライク・ア・バージンをyou tubeで見てもらう)。皆さんどう思うか、聞いてみたいと思いました。

今日は、自分のリアクションを男性は女性に、女性は男性に見てもらい、少しジェンダーについて話し合ってください。(以下、リアクションと配布プリント)

教育原論(第12回)リアクション   2019年 7月5日        

テーマ ジェンダーと教育 (テキスト「教育の基礎と展開」第9章参照)1 前回のリアクションを読んでの感想 2 ジェンダーとは何か(定義)(テキスト121ページ、他 参照)3「セックスとジェンダーのずれ」(A 上野千鶴子「セックスとジンダーのずれ」)の要点をまとめなさい。4 学校において、男女で教えられることや指導の仕方が違うことはありますか(カリキュラム、部活動、生徒会活動、進路)(B 木村論文参照)5 日本の社会で、なぜ上位の地位を男性が占め、女性が少ないのでしょうか。 たとえば、女性校長は少ない(テキスト127ページ、図9-1)6 女性は、どのような生き方や考え方をすれば、男性と同等となり、力を発揮できるのでしょうか。(C 小倉千加子、D マドンナ、他)7 異性の人のコメントをもらう(     )

追記 I氏より下記のサイトの紹介があった。日本で女性の研究者の割合が欧米の半分以下とのこと。<女性の研究者の割合は、イギリスで35.4%、アメリカ34.3%であるなか、日本は15.3%と半分以下で、韓国の18.9%よりも少ない。教授職より上位職ではおよそ10%。女性研究者はなぜここまで少ないのか。以下が女性研究者が少ない理由トップ3、「家庭との両立の難しさ」「育児期間からの復帰の難しさ」「職場環境」>(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65490?page=5

追記 「ジェンダーの社会学」は社会学が専門の学生に半期をかけて行われることが多い。上記のような話を社会学が専門ではない学生(それも1年生)に、1回でして、どの程度の理解が得られるのかと疑問に思われる人もいると思う。その実際は、その時書かせたリアクションを見ていただくとわかる。学生の理解度は高い。

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日本子ども社会学会26回大会から学ぶ

先週末(6月29日、30日)、東京成徳大学で日本子ども社会学会26回大会があり、参加していろいろなことを学んだ。学んだこと、そこで考えたことを記録にとどめておきたい。

「子ども理解」をめぐって、教員養成と保育者養成では違いがあるというテーマセッションの議論(片山悠樹氏他)を興味深く聞いた。教員養成の場合は、「子ども理解」というと、どのような視点から子どもを見るかで見える部分が違うので、視点をいろいろ変えて(見えない部分も)見るというのが必要と、教えている。子どもという実態が客観的に存在し、それを科学的な視点から明確にとらえることが必要と考えている。                                       ところが保育者養成では、子どもがどのようなことを考え行動するのかということを静的に(客観的に)みるのではなく、動的に(実践的に)みる。たとえば、子どもが砂場で遊んでいて、そろそろ次の場面に移ろうと保育者が考え、それを子どもに促したところ、子どもがそれを嫌がり泣き出した時、子どもの気持ちと保育の実践との間で、子どもの気持ちに寄り添うにはどのようにしたらいいのかを考え、自分の実践力を高める。それが保育者の「子ども理解」というものである。先輩の保育の仕方を学び、自分の実践を鍛えることが大切。(これは、教育とケヤの違いかもしれないと思った。保育は子どもを教育するよりはケアしている)

「子ども社会学研究」25号では、山田富秋氏が、「自律した個人ではなく、将来の市民社会の担い手として、依存とケアを必要とする子どもを社会の根底に位置づける必要に迫られる」と、ジョン・オニールとキテイの理論を紹介し、シティズンシップの教育の提案しているのには感心し、学ぶべきものが多くあると感じた。

文部科学省の全国学力テストは、小6と中3を対象に行われている。その得点や順位でみると、小学生も中学生も高い「維持型」(秋田、福井)、小学生も中学生も低い「停滞型」(大阪、北海道)、小学生が高く中学生で低い「下降型」(沖縄、高知)、小学生で低く中学生で高い「上昇型」(静岡、愛知)の4タイプがあるという。小学生の時、個性化や主体的な学びをして、それが中学生になり開花して「上昇型」になるというの解釈を、馬居政幸氏や西本裕輝氏が提示していて、興味深いと思った。高校や大学、さらにその先まで見通すとどうなるのであろうか。小中の学力の高い秋田や福井の子どもたちの学力は高校や大学、そして社会に出てからどうなるのであろうか。実証的に検証できないものであろうか。

村から出る学力と村に残る学力のどちらを教えるべきかの議論がある。現在地方は人口減少が続き、村から出る学力ばかり教えていては人口減少を加速させるだけである。そうかと言って、村に残る学力を教えればいいというわけではない。村に残るか、村から出ていくのかは個人の選択に委ねるべきで、どちらを選択しても、たくましく生きていく学力を育てなければならない(馬居政幸氏)。

<追記>I氏より下記の情報が寄せられた。文科省「英語教育実施状況調査」というのがあり、都道府県別のランキングも出ているが、調査自体にあいまいなところがあり、結果は信用できないとコメントする専門家もいるという。(紹介、コメントは下記)

https://news.yahoo.co.jp/byline/terasawatakunori/20190422-00123134/



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