選択肢の数

選択肢が無数にある中から選ぶのと、選択肢が限られている中から選ぶのではどちらがいいのであろうか。
もちろん前者の選択肢の多い方から自分の好きなものを選ぶ方が、自由度が高くいいような気がするが、必ずしもそうではない。特に自分に選球眼がない場合、選べるものが無数にあるとどれにしたらいいのか途方にくれてしまう。

家で観る映画の選択に関しては、どうだろうか。家人や娘は、ネットフリックスで、無数の選択肢の中からみたい映画を観ている。私も薦められ、部屋にあるテレビでネットフリックやアマゾンのみたい放題の番組から選ぼうとするのだが、選択肢があまりに膨大で選べない。
昨日は、かなりの時間テレビの前にいたが、観た映画は、「NHKBSプレミアム」でやっていた「がんばれベアーズ」と「マラビータ」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BF)という映画。どちらも、映画としてとてもよく出来ていて、名作と言われるものに入るものであろう。NHKBSが選んでくれたので私はこれを観れた。選球眼のない人には、導き手が必要である。

ただ、これが教育となるとどうであろう。導き手(教科書や教師)によって、子どもが狭い範囲へ見方が閉じ込められたり、洗脳されては困る。そうかと言って、無数の選択肢を子どもの前に示しても、子どもは途方にくれるだけあろう。なかなか難しい。

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春近く 春の花

昨日まで冬のような寒さで、今日(27日)になってやっと春の暖かさを感じられるようになった。
それを確認しようと、稲毛海浜公園へ。
公園と花の美術館では、ポピー、チュウリップなど春の花が満載。桜ももうすぐ咲きそう。

ソフィー(犬)は久しぶりの公園にうれしそう。ソフィーは1か月前に、虫の息の時があり、1週間ほど入院し、検査、手術を受け、何とか一命を取りとめた。今日はそれからはじめての外出で、これだけ元気ならば大丈夫そう。

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池澤夏樹著「アトミック・ボックス」(角川文庫)の感想 by 水沼文平

見田宗介氏の「社会とは、一人一人の人間たちが野望とか絶望とか愛とか怒りとか孤独とかを持って1回限りの生を生きている、その関係の絡まり合い、ひしめき合いであるはずです。切れば血の出る社会学、〈人生の社会学〉を作りたいと願っていた」という言葉が読み終えたばかりの池澤夏樹著「アトミック・ボックス」(角川文庫)と響き合い、また武内先生の「読書・・・を読む」にも刺激され、下記のような読書感想文を書いてみました。(水沼文平)

池澤夏樹は1945年生まれ、小説の主人公宮本耕三も同年の生まれである。広島・長崎への原爆投下で太平洋戦争は終結、GHQの支配下、朝鮮戦争の特需を機に日本は経済復興を遂げていく。
この本のテーマは、戦後日本で秘密裏に行われた原子爆弾の開発とアメリカの干渉による中止、能力を買われこの開発に参加した耕三の心と意識、生き方の変遷にあると思う。彼は、日本での原子爆弾研究がひとりのメンバーによって北朝鮮に持ち出されこと、また自らが広島で体内被曝をしたとう事実を知る。原子爆弾の開発に関わったことの過ちを後悔し、復帰した会社も辞め、瀬戸内の故郷の島に戻り漁師として生きる道を選ぶ。世界的にはスリーマイル島、チェルノブイリ、福島第一と人間の力では後始末のできない原発事故が続く。原爆の後遺症か耕三はガンで死亡、耕三から原子爆弾開発の国家機密資料を託された娘美汐はその資料を公開すべく警察網をかいくぐるサスペンスが展開される。
私はそのプロセスと結末よりも、宮本耕三と原子力の神話を聞かされて育った我々同世代の人間がこの小説の紛れもない主人公であると強く思った。
なお池澤夏樹の近著「春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと」も合わせ読むと作家の意図がさらに鮮明になると思う。
蛇足ながら池澤夏樹は作家・フランス文学者である福永武彦の遺児である。

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高校調査について

今回の新しい学習指導要領の目玉の一つは、高校教育のカリキュラムの改革と言われている。 それらは、今の高校の実態や高校教師や生徒の実態を反映したものになっているのであろうか。

私は、深谷昌志先生の主幹する調査グループの一員として1,980年から2004年の24年間の長きにわたって、高校の実態をデータで明らかにしてきた(ベネッセ・「モノグラフ高校生」)。
その報告書(全74号)は、今でも下記で全部見られる。

http://berd.benesse.jp/berd/center/open/report/monograph/kou/

その高校調査は、主に高校生を対象にしたものであったが、なかには高校教師を対象にしたもの(Vol 10,28,38,67)や親を対象にしたもの(vol30,40)があり、高校教育を構成する様々な側面をデータで、明らかにしたものである。これらはデータが古くなっているので今は実態が変わっていると思うが、高校改革を考える時、常に実態も踏まえたものであってほしいと思う。 私達も、今ささやかな高校調査を企画していいる。

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見田宗介「まなざしの地獄」について

社会学の論文にも後世に残る名論文というものがある。見田宗介「まなざしの地獄」雑誌「展望」(1977年)もその1つである。
私はその論文を昔、社会学や教育社会学のゼミでのテキストの1つによく使い、学生に社会学分析の醍醐味を味わってもらったように思う。
今回、その論文について、朝日新聞の記者が「時代のしるし」という欄で取り上げ、見田宗介へのインタビューもまじえて紹介している(2017年3月22日)
インタビューの中で、見田氏が社会学について、次のように述べているのが印象的であった。
<学生時代のぼくは、集団や社会を抽象的に概念規定したり分類したりするだけの社会学をつまらないと感じていました。社会とは、一人一人の人間たちが野望とか絶望とか愛とか怒りとか孤独とかを持って1回限りの生を生きている、その関係の絡まり合い、ひしめき合いであるはずです。切れば血の出る社会学、〈人生の社会学〉を作りたいと願っていた。>。
以下、朝日新聞(2017年3月22日)より転載。

(時代のしるし)差別社会、若者を絶望させた 見田宗介さん「まなざしの地獄」
ちょっと変わった経緯をたどった論文です。元々は1973年に雑誌「展望」に掲載されて、少数の若い読者の強い共感だけがあるという状態が続いていました。表題作として単行本になったのは35年後、2008年です。それを機に初めて広く読まれるようになりました。
1969年、市民4人を射殺した連続射殺犯として、19歳の少年「N・N」が逮捕されます。永山則夫さん(元死刑囚=97年執行)です。ぼくが衝撃を受けたのは71年、彼の手記『無知の涙』を読んだときでした。
N・Nは地方で極貧の子供時代を送り、中卒で上京しています。手記の表紙には、漢字練習帳の写真が載せられていました。逮捕されたあとに字を覚えようとして何度も何度も字を書きつけたものです。
ぼくも子供時代に貧困を体験し、大学時代は「学生スラム」とあだ名される宿舎にいた。N・Nの言葉に共鳴しました。また、読んでいくうちに「これでぼくが本来やりたかった仕事ができる」とも思いました。
学生時代のぼくは、集団や社会を抽象的に概念規定したり分類したりするだけの社会学をつまらないと感じていました。社会とは、一人一人の人間たちが野望とか絶望とか愛とか怒りとか孤独とかを持って1回限りの生を生きている、その関係の絡まり合い、ひしめき合いであるはずです。切れば血の出る社会学、〈人生の社会学〉を作りたいと願っていた。1人の人生に光を当て、その人が生きている社会の構造の中で徹底的に分析する。その最初のサンプルを提示するつもりで書きました。
N・Nにとって都市は、若者の「安価な労働力」としての面には関心を寄せても、その人が自由への意思や誇りを持って生きようとする人間だという面には関心を寄せない場所でした。また社会には、出身や所属によってその人を差別し排除する構造もありました。「思う通りに理解されない」ことにN・Nは苦しみ、他者のまなざしに沿って自らを変形させていきます。
あのときN・Nを絶望させたのは、彼の出身ではないと思います。絶望させたのは、出身で差別する社会の構造です。
ぼく自身の体験を振り返っても、貧しいこと自体より、「貧しい人間は○○だ」などとレッテルを貼られることのほうがイヤだという感覚が強くあった。社会にあらかじめ用意されている安易な理解の枠組みにあてはめられ、それによってぼくという存在が理解されたかのように扱われてしまう問題です。
「まなざしの地獄」でぼくはN・Nの「精神の鯨」とも呼ぶべき断片を紹介しています。彼が見た夢みたいな話です。
鯨の背の上で大海を漂流している「ぼく」は、飢えて鯨に「君を食べていいかい」と聞きます。鯨は「仕方無いよ」と答え、「ぼく」は鯨をほんの少しだけ、また少しだけと毎日食べていく。3分の1食べたところでひどいことだと気付いて謝るのですが、鯨はもう死んでいた。そのとき「ぼく」は、鯨は自分自身の精神であったということに気付く、という話です。
電通の24歳の女性社員が過労自殺した事件が昨年、注目されました。あのときぼくは、N・Nのこの話を思い出しました。事件自体はもちろん、伝えられる通り、極端な長時間労働で心身が消耗した結果なのでしょう。ぼくが思ったのは、その背後には数え切れないくらいの〈精神の過労自殺〉があるのではないか、ということでした。
現代の情報産業、知的産業、営業部門などで働く若い人たちが、やむをえない必要に追われる中で「仕方無いよ」とつぶやきながら、自分の初心や夢や志をちょっとずつちょっとずつすり減らし、食いつぶしている。そしていつか、自分が何のために生きているのか分からなくなってしまっている。
「まなざしの地獄」は文学なのか、社会学なのか、哲学なのか、と尋ねられてきました。
近代の知のシステムは「文学」とか「社会学」とかいう様々な分類、壁を作って専門分化してきた。こういう壁は音を立てて崩れるときが来ると思っています。そのあとに現れる「人間学」のようなもの。その一環としてこの仕事が読まれる時代が来るといいな、と思っています。(聞き手=編集委員・塩倉裕)
みた・むねすけ 1937年生まれ。社会学者。東京大学名誉教授。自由で持続可能な社会の可能性を理論的に提示した『現代社会の理論』や、真木悠介名義の『気流の鳴る音』などで知られる。人間の解放や幸福を希求する感性と透徹した論理性が共存する独特の著作で多くのファンを持つ。朝日新聞で80年代に連載した「論壇時評」も注目を集めた。
■「まなざしの地獄」(1973年)
貧困の底から中卒で上京した少年(永山則夫元死刑囚)が市民4人を射殺した事件に向き合い、自由な存在であろうと願いながら果たせなかった一少年の実存を当時の社会構造に位置づけた名論文。少年の手記や社会統計の分析を通じて論考は、人を出自などで差別する都市のまなざしと、それを生み出す人々の「原罪性」に迫る。移民排斥問題に揺れる現代にも示唆的だ。73年発表。2008年、表題作として単行本化。

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