高校の同期会・クラス会に出る

6年前より高校(都立日比谷高校)の同期会・クラス会が3年ごとに開かれている。1回目に参加し(201362日のブログに記録あり)、昨日(9日)銀座で開かれた3回目の会に参加した。1回目から6年が経過している。同期が400名いて、昨日は104名の参加で、26%の参加率。50名のうち20名が参加しているクラス(参加率40%)もあったが、私のクラスは8名の参加(前回の半分)で、少し寂しい会であった。クラスで既に亡くなった同級生は議員だった町村信孝氏を含め7名いて、同期・クラスの中心メンバーを欠き求心力が失われたのかもしれない。同期の「年老いた人たち」を見て自分の齢を感じるみじめな気持ちになる会になるかなと恐れたが、意外と皆元気そうで安心した。

当時の日比谷高校は、クラスを生徒が選べる仕組みで、私のクラスはラクビ―を中心に山岳部や野球部の生徒が集まるにぎやかなクラスで、学業成績はあまり良くなかったが(現役で東大に入ったのは6名、隣のクラスは確か12名。でも成績ダントツトップ3はこのクラス)、町村氏やTBSの名プロデュサーだった片島謙二氏、外務省で活躍した東郷和彦氏など個性的な人が多かった。私自身は千葉の田舎から出てきて同級生と階層的・文化的なギャップを感じ、隅の方でひっそりと暮らしていたように思う。

昨日は当時はあまり話せなかった同級生ともいろいろ話ができ、3年ではクラスが違ったが2年次に一緒で仲がよかった藤田勝氏と会うことができ、1年次に一緒の安藤正輝氏(琴奏者)の姿も見て、参加してよかったなと感じた会であった。

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教育の効果

教育の効果はすぐ現れず、何年か後に現れるように思う。しかしその何年か後の教育の効果を計る試みはあまりなされていない。一人の人の成長の過程を追いかけるパネル調査は少しはなされているが、莫大な手間暇と費用がかかるため日本ではなされることは少ない。

もう少し身近なところでは、家庭の中で子どもをこのように教育したところその効果はこのように現れた(例えば、このような家庭教育が東大に子どもを入れるのに役立った等)などの実践報告を目にすることはある。一方、学校教育や大学教育の効果に関して、上級学校への進学率や企業への就職率などのデータは報告されるが教育の中身の効果などが長期的なデータから報告されることは少ない。著名人の出身大学が明記されることが多い。これは暗に大学教育の効果を示している。ただ、これも本人の資質や努力のたまものか、家庭教育のせいか、小中高あるいは大学の教育の効果なのか、正確には識別できない。

私たち大学教師からすると、自分の教えた学生が、大学卒業の職業や職場でどのような活躍をして、その活躍に自分の教育が何ほどかの貢献をなし得たのか知りたいと思うことがある(多分大した貢献をしていないので、現実を知らない方がいいのかもしれないが)。 上智大学に在職中に、教育学科の同僚で教育哲学が専門の増渕幸男教授がいらして、増渕教授の学識と人柄と教育のせいだと思うが、優秀でユニークな学生がゼミに集まっていた。分野が違うのでどのような内容の講義やゼミなのかわからなかったが、大学卒業に、社会でめざましい活躍を人が多く輩出された。たとえば、2006年ミスユニーバース日本代表(世界2位)の知花くららさん、最近フォトジャーナリストで注目されている安田菜津紀さん(yasudanatsuki.com/)。この二人の活躍の内容は教育哲学的なものを含んでいるので、多分増渕教授の教育や指導の成果ということはあると思う。この二人も私の「教育社会学Ⅰ」の授業も必修で履修していたが、どこかで、教育社会学的なことが役立っていれば嬉しい。このようなことを、6月2日の朝日新聞GLOBE,No.218で安田さんが大きく取り上げられていたので思った。

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「教育原論」第7回(5月31日)の授業内容とリアクション

まず、テキスト『教育の基礎と展開』(高野・武内編著、学文社、2016)の2章の前半部分(p10〜16)に目を通してほしいと思います。本学の中山幸夫教授が、西洋の代表的な教育思想家7人に関し。的確な解説を書かれています。私なりにその要点を書き出せば、下記のようになります。

教育思想とは、教育について考えられたことを体系化したもの。それは人間観に基礎づけられている。西洋の人の代表的な7人の教育思想に関して、その思想家の生い立ちや経歴も含めて説明する(以下は、テキストよりその教育思想の内容の核心部分のみピックアップ)

ルソー(1712〜1778年)-人間の本性を押さえつけず、人間の本性に従った教育のあり方を説く新しい人間観(子ども観)を誕生させた。主著『エミール』では、子どもには固有の活動がある、子どもには自ら成長発達しようとする内在的な能力が備わっている、として、内なる自然に従って教育を行うべきことを説いた。/ペスタロッチ(1746〜1827年)-貧しい民衆を救済するための拠り所を教育に求めた。『隠者の夕暮れ』が有名。/フレーベル(1782-1852)-幼児教育の重要性に注目。幼児の遊び道具として「恩物」を考案・制作した。フレーベル幼稚園は、彼の教育思想と理論の実践の場であった。/モンテッソーリ(1870〜1952年)-感覚訓練の為の教具を考察。幼児期の「敏感期」に注目。モンテッソーリ・メソッドを考案。/コメニュウス(1592〜1670年)-近代公教育制度の元を作る。すべての子どもたちが貧富の別なく入学・進学できる学校体系の提案。『大教授学』が主著。/コンドルセ(1743〜1794年)-フランス革命の自由、平等、博愛の精神で、公教育の政治や宗教的権力からの独立性を提起。学校分布の平等性など、近代学校制度の元を作る。/デュ―イ(1859〜1952)―学校は「小さな共同社会」。伝統的な一斉授業中心の学校教育を作業中心の活動的な学習の場に変える。問題解決と自己実現を目指し、成人社会における民主主義を尊重するような教育をめざす。主著『民主主義と教育』。

配布したプリントを読んで現代に至る代表的な教育思想家の思想内容を読み取ってほしいと思います。さらに、もう一枚のプリントを読んで西洋の教育思想家の生きた時代の一覧表を作ってほしいと思います。

教育原論リアクション(第7回、2019年5月31日) 教育思想

1 前回リアクション(5月24日)を読んでの感想 /2 主な教育思想家の考えと著作(誰か2人を選んで)/3 教育思想家の生きた年代を図示しなさい。4 他の人からコメントをもらう。

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敵視の相互依存について

漠然と感じていることを、明確な言葉や見方で指摘されることがある。それは、人との会話であったり、ブログであったり、新聞記事であったり、本であったりする。それは知らず知らずのうちに囚われている思考様式に反省を促すものである。

週刊誌やネットのツイッターで、誰かを悪者にして叩くのは、人々の繋がりを強めストレス解消になるように思うが、それは、クラスなどで、特定のひとりの子をからかい、皆でつながりを強め学校生活のストレスを解消する「いじめ」と同一の心理で、やってはいけないことのように思う。悪者に仕立てあげられる人は、有名人であったり権力者で少し間違いを起こした人がなることが多く、つい罪悪感がなく同調してしまうが、「いじめ」には変わりない。――そのようなことを、下記の新聞記事を読んで思った(一部転載)

「我々が暮らす今の社会では、個人を識別するデータに基づいた監視と管理が想定以上の速度で進んでいる」「現在の情報監視は、国家による直接的な情報取得よりも、利便性や経済的利得のために人々が進んで自らの個人情報を提供することで成立している」「社会的な流動性が高まり監視社会化が進むと、個人が選択を行う際に社会的規範よりも他者からの承認が優先されるというのが監視社会論の要諦だ。人々は他者からの承認目的で共通の「敵」を見つけ、「みずからの敵視の妥当性を他者の賛意に求め、それを相互に確認し続ける解釈の循環を作り出す」「「監視カメラ」は「ツイッター炎上」や「メディアの偏向報道」、「フィルターバブル(ネットで自分が見たい情報しか表示されなくなる現象)」など、様々なものに置き換え可能だ。「現在の「超監視社会」においては、自らの承認のために一時的な仲間をつくり、敵を攻撃することでしか不安定な自己の安定をはかることができない。イデオロギーや規範よりも、敵視の相互依存が勝る社会では、手近な安心感を相互に得ようとする自己撞着(どうちゃく)的な勢力が最も力を持つ。」(津田大介 「超監視社会」朝日新聞5月30日,朝刊) \

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「教育原論」(第6回)の授業の記録、まとめ、補足

第6回の授業(5月24日)では、「学校について考える」(その3)と題して、不登校、いじめ、ホームスクーリングについて話し、皆さんにもグループ議論してもらいました。               なぜそれらのことが学校と関連しているかというと、現代の学校が規則に縛られ官僚制化していくと、学校組織・学級集団の特質や子どものストレスからいじめが蔓延化し、学校に合わない子どもが出てきて、不登校になったり、そんな学校に行くより家庭で子どもを育てた方がいいのではないかという考えも出てきます。(ホームスクーリング)。学校に行きいじめに会い、自殺に追い込まれるくらいなら、学校を休み、ホームスクーリングで学んだりした方がいいように思います。このように、不登校、いじめ、ホームスクーリングは、学校のありかたと関連しています。

不登校(登校拒否)に関しては、文部科学省(文部省)の考え方も平成4年を境に変わってきました(沢崎参照)。文部省は不登校(登校拒否)の原因は家庭や本人だけにあるのではなく、学校にもあると認めました。そしてそれに基づいた対策が模索されています。

いじめに関しては、いまだ原因がよくわからず、見当はずれの対策ばかり取られています。いじめは定義が難しいという話をしました。現在は、いじめの被害者の苦痛にもとづいた心理的な定義が優位(文部科学省も)で、それは加害者の言い逃れを防ぐ優れた定義ですが、同時にあいまいで、冤罪が起こる可能性もあります。森田洋司のいじめの4層構造(加害者、被害者、観衆、傍観者)の話をして、集団の反作用が大事という話をしました。いじめは、閉鎖的で半親密な集団で起きる可能性が高いので、そのような特質を持つ学級がその温床になっています。学級集団の改善が必要です。いじめ自殺を防ぐためには、「学校に行きいじめにあうくらいなら、不登校になりなさい」という裁判所の判例もある(山本雄二)という話をしました。

このように、いじめ、不登校、ホームスクーリングは、今の学校のありかたとも関連していますので、教師を目指す皆さんも、いろいろ根本的なところから考えてほしいと思いました。(以下、当日の配布資料再掲)

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