低いテンションで千葉で暮らすということ

今日は、千葉県内のしかも近場であるが、JR稲毛駅を経由して、千葉駅、本千葉、船橋駅という場所に行く機会があった。同じ千葉県の近場の駅であっても、そこの雰囲気、行きかう人の感じ(服装等)などが微妙に違うのを感じた(東京や、他の土地と比較するともっと大きな違いであろう)。

本千葉は、千葉駅から電車で3分くらいのところにある駅であるが、東京方面からくると千葉駅で乗り換えなければならず(直通も1時間に1本くらいはある)、電車の本数も15分に1本程度で、駅前は閑散としている。駅を降りて近くを歩いてみると、大きなスーパーはあるものの車の通りは少なくとても静かで、のんびりしていて、住みやすそうと感じた。              

一方船橋駅は、東京に近く(快速で20分)、駅の北側に東武デパートがあり、2つの線の乗り換え駅でもあり活気があった。駅ビルに入っている飲食店もなかなかおしゃれで、行きかう人も千葉県にしてはセンスのいい人が多いと感じた。千葉駅は最近リニューアルオープンして新しい店がたくさん開店したが、何せ千葉の田舎から出てくる人が行きかっていて、都会的センスからは程遠い。稲毛駅も、駅前の店や行くかう人は多いが、ただ雑多なだけで、千葉の田舎のセンスから脱せられていない。

このように千葉は(東京には比較的近いとはいえ)、みな気取りもなく普段着で過ごしているという感じで、低いテンションで過ごすことができ、気楽でいいと思う。ただ、これから一旗あげようと考えている若い人には物足りないかもしれない。若い時は、もう少しハイテンションで暮らした方がよい。

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放送大学 退任記念講演(小林雅之氏)

放送大学の各学習センターには客員制度があり、私も過去に東京文教学習センターの客員を5年間務めた。その後5年間客員教授を務めた小林雅之氏の退任記念講演が下記のように今週開催されるようだ。内容を転記しておく、詳しくは、放送大学のHPを。https://www.sc.ouj.ac.jp/center/bunkyo/news/2019/03/02104900.html

放送大学東京文教学習センター 退任記念講演会/講師:小林 雅之(客員教員)/■ 日時:平成31年3月16日(土)14:00~15:30(13:30受付開始) /題目:「大学進学機会と教育費」/■ 定員:80名(定員になり次第、締め切らせて頂きます)/■ 参加費用:無料/■ 会場:放送大学東京文京学習センター2階 講義室2/ 地図 http://www.sc.ouj.ac.jp/center/bunkyo/about/access.html

https://krs.bz/u-air/m?f=1333

■■ 講演の概要: ここでは、大学の進学機会とそれに大きな影響を与える教育費の問題を取り上げます。そのためには、まず「大学とは何か」について、考えるために、大学の過去と現在を大きく見ていきます。大学は中世ヨーロッパに創設され、次第に世界各地に広がっていきます。現在の大学の原型は19世紀のベルリン大学で、それはアメリカで発展して現在に至ります。それに対して近代の日本では大学はどのように発展してきたのか。そして、進学機会はどのように拡大してきたのか。それらをふまえ、教育機会と教育費の問題を取り上げます。現代の日本では大学進学の機会の格差が大きな社会問題となっています。なぜ教育機会には格差が生じるのでしょうか。ここでは教育機会の格差の要因を検討していきたいと思います。また、日本ばかりでなく、教育機会の問題は、アメリカ、イギリス、中国などでは以前から大きな問題であり、現在も活発な論争が続いている。こうした教育格差の要因のひとつが教育費負担のありかたです。こうした教育費負担観の差について比較することで、学生への経済的支援など日本の教育費負担のあり方について理解していただきたいと思います。


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道徳教育について

世間の考えと教育界の考え方には、乖離がある場合がある。たとえば、道徳教育についての考えはその例だ。道徳教育は、今教育界では「特別な教科」として重視されている。その教える内容も、自分、他者との関係、社会との関係、自然や崇高なものとの関係に関して、世界のどこでも通用するような普遍的な「道徳項目」が挙げられている。                         ところが、一般の社会では(特に文学者?)では、道徳(教育)は、人気がない。近代文学の研究者で有名な石原千秋氏(早稲田大学教授)は、道徳教育に関して、かなり激しい言葉で「必要ない」と言っている。

<人の心を変えたり1つの道筋へ方向付けしたりするのは、神か仏か悪魔に任せておけばいい。生身の人間が教室でやっていいことではない。><電車やバスの優先席でスマホを操作しないこと。これは単なるマナーの問題だろう。道徳は日常生活の中で身につけるものだ。教室で身につけるものではない。><私たち大人になると、みんな自分が甘ったれた若者だったことを忘れて、甘えは若者の専売特許だと思い込んで混んでしまう。だから自分の中にある甘えにも気がつかない。そういう大人がもっともやっかいなのだ。なぜなら、他人に「道徳」を押しつけたがるからだ。>(石原千秋『なぜ「三四郎」は悲恋に終わるのか』集英社新書、2015、p142、p158)

教育社会学の立場からすると、道徳とマナー(や作法)の違いを冷静に分析し、学校の道徳教育の時間に何ができるのかを考えればいいということになるように思う。加野芳正編著『マナーと作法の社会学』(東信堂)は、緻密な考察をしている(一部転載)

<マナーは、「ヒトが自己あるいは他者のもつ動物性の次元になるべく直面しないですむように作り上げた一種の身体技法」と定義することができる。それは多くの場合、教育や躾を通して身体化される。マナーの精神の根底にあるのは他者に対する配慮であり、自分勝手な行動を抑制し、快適な市民生活を維持することである。><マナーは法と道徳の中間に位づく準ルールであると言われる。><道徳は内面的原理であり、それがルールやマナーと結びつくことによって、行為として表象される。>            

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教育学部・教育学科の卒業生の進路

教員養成でない教育学部や教育学科(それに子ども学科も)を修了した卒業生は、大学院に進み研究者・大学教員にならない場合、どのような進路にすすんでいるのであろうか。

教育という機能は、学校や大学だけではなく、家庭や会社や社会の様々な場面にあるので、大学の教育学部・教育学科で学んだことは、どの分野にすすんでも役立つことであろう。そのように学生にも説明してきた。

東大の教育学部の卒業生をみると、大学教員の他、文部科学省や教育関係の機関や企業、それにマスコミで活躍している人もいるが、多くは企業で他の学部の卒業生と同じような仕事をしている人が多いことであろう。先日、最終講義を聞いた小林雅之氏と同期で、私の助手時代、東大の教育社会学コースを卒業して、九州の地元に帰って議員などをしていた鹿田磨樹氏が「教育学術新聞」に寄稿している記事を見て、とても懐かしく感じた。現在は私立大学の理事長をしているという。大学時代に学んだ教育学(教育社会学)がこのような形で生かされているのだと思った。上智大学の教育学科の卒業生も大学で学んだ教育学の知識が、いろいろな形で生かされているのであればうれしい。

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自分のセンスのなさに呆れるが、、、

自分に芸術的、音楽的、文学的センスがないのは自覚している。でも、誰かの丁寧な説明を聞いりすると、その内容が理解できる場合がある。それにはかなりの時間がかかるが。一生理解できないよりはましであろう。

音楽で言えば、若い時、「マドンナ」の音楽やテレビから流れる映像を見ても、全然いいと思わなかった。マドンナの露出の多い衣装や挑発的なダンスを見て、「えげつない」という印象で、それ以上マドンナの音楽を聴いたり映像を見ようとは思わなかった。ところが、後年、友人の山本雄二氏の訳したフィスクの本『抵抗の快楽』(世界思想社、1998)のカルテュアルスタディーズ観点からの卓抜的なマドンナ解釈を読んで、マドンナの意図とその音楽性の高さを知り、マドンナのビデオやCDを買い集め聴いた。そしてそのよさを少し理解した。大学の授業でもマドンナの歌と映像を流して学生に説明するようなこともした。

今回、同じようなことを「クイーン」についても感じた。クイーンの音楽をまともに聴いたことはないし、フレディのステージは何か品が欠けるというくらいしか思っていなかった。それが先日たまたま「BS世界のドキュメンタリー『クイーン 素顔のボヘミアン・ラプソディ』2019年3月3日(日)を見て、フレディの素顔にふれ、(それ自体一つの見方に過ぎないかもしれないが)、その観点からクイーンを聴き観てみたいと強く感じた。                                  この番組を観て、「すごい才能にあふれたバンドだったことを改めて感じた。その影には人に言えないくらいのコンプレックスや、苦悩があったんだとも感じた。命がけでたくさんの名曲を生み残してくれた彼らに、最大の感謝と敬意を表する。」と書いている人もいる。

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/253/2145705/index.html

センスのない人間は、このように学んで、センスのなさを補うしかないのであろう。

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