佐倉ラベンダーランドに行く

以前に「たんばらラベンダーパーク」にラベンダーを見に行ったことがあるが、車でかなりの距離があり、入場料も1200円と高く、それほど見栄えのするパークでなかった記憶がある(2023年8月3日のブログに記載。ただ、季節が過ぎていたのかもしれない)。本日、家から近い佐倉市に広いラベンダーガーデンがあるというので、出かけた。メインの道路からはかなり中に入り込んだ趣のあるゴルフ練習場に隣接するところのガーデンであったが、なかなか広く見事なラベンダー畑で、そのよさを堪能した(駐車料金、入園料無料、さすが佐倉市の施設、花を見に来ている人の雰囲気も良い)。そのゴルフ練習場のレストランのランチも美味しく、近場にいいところがまだあるものだと思った。

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佐倉ラベンダーランド

https://www.bing.com/images/search?q=%e4%bd%90%e5%80%89%e3%83%a9%e3%83%99%e3%83%b3%e3%83%80%e3%83%bc&id=C2CD5300C0D5436AB4F66941E93B4B40E6721D18&form=IACFIR&first=1&disoverlay=1

ラベンダーに関しては、ネットで検索すると「ラベンダーは、夏を彩る花の一つです。美しい香りと淡いピンクや紫の綺麗な色合いが特徴的です。日本国内にも野生のラベンダーがありますが、見頃は6月から8月の間だとされています。定番の「愛情」「友情」「勇気」などの気持ち伝わる花言葉も人気の秘密!この美しい花は「信任」を意味するためから古来から人々の心を惹きつけてきました。さらにラベンダーの花言葉は「幸運」という意味合いがあります!」(https://flower-plant.com/articles/7043)とある。

今年の菖蒲(あやめ)の見学

例年は今の季節、茨城県の潮来にあやめ(菖蒲)を見に行くのだが(昨年の様子は6月6日に記載)、物価高の折、高速代(千葉北から潮来まで片道1900円)を節約して、今年は近場の習志野市の公園2つ(習志野香澄公園、実籾本郷公園)にあやめを見に行った。2箇所ともこじんまりとしながらも、かなり多くの種類の色とりどりのあやめが咲いていて、公園の雰囲気もよく、十分に楽しめた。あやめ園は、静かに日本情緒を味わうことができる場である。(共に家から車で20分ほどの距離、高速代、駐車料金、入園料無料)。

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2つの公園のHPは下記。

香澄公園

https://www.city.narashino.lg.jp/soshiki/koenryokuchi/gyomu/shisetu/koenshiseki/kasumikoen.html

実籾本郷公園

https://www.city.narashino.lg.jp/soshiki/koenryokuchi/gyomu/shisetu/koenshiseki/mimomihongokouen.html

大学におけるきめ細かい教育支援について、生成AIに質問する

文部科学省の「全国学生調査」の最近のデータをみていたら、4年制大学に比べ、短期大学の教育がきめ細かく学生に寄り添っていることにわかった。それなのに、今短期大学への進学希望者は減少し、募集停止する短期大学が続出している。学生に対するきめ細かい教育支援は必要がない、大学では学生をある程度自由放任にした方がいいということなのであろうか、と思った。その点を生成AIにしてみた。以下、その回答。

ChatGPT:の回答

大学における「きめ細かい教育支援」の意義 ― 短期大学の教育実践を手がかりに ―/ 近年、短期大学における学生支援の充実が注目されている。文部科学省の「全国学生調査(試行調査)」の結果からも明らかなように、短大では少人数制の下、個別性の高い教育指導が行われ、学生の満足度も高い傾向にある。履修指導、資格取得支援、日常的な教職員との関わりなどを通じて、学びのプロセスにおいて学生が孤立することなく、主体的に取り組めるような環境が整備されている点は特筆に値する。/ しかし、現実には短大の志願者は減少傾向にあり、募集停止や閉校を選択する短大も少なくない。この状況を単に制度的な淘汰や学歴志向の結果として片づけるのではなく、短大が有していた「学生に寄り添う教育文化」が、これからの大学教育においてどのように活かしうるかという視点から再評価することが求められている。/ 従来、大学教育においては「自由・自主・自己責任」といった理念が重視され、「学生をある程度自由に放任することが大学らしさである」といった意識が支配的であった。確かに、学問的自由や自己形成の場としての大学の性格を踏まえれば、過度な介入や管理は避けるべきである。しかし、実際の学生の実態を見ると、必ずしも全ての学生が高い自己管理能力を備えて大学に入学してくるわけではない。高校までの受動的な学びから十分に転換できないまま、大学生活に戸惑い、学修意欲や目標を喪失してしまう学生も多い。加えて、家庭環境や経済的背景の多様化、精神的・身体的困難を抱える学生の増加など、大学生支援のニーズは年々複雑化している。/ このような現状を踏まえると、大学においても、一定の「きめ細かさ」を持った学生支援の体制を構築する必要がある。ただし、それは小中高のような「管理型の支援」ではなく、学生の主体性や自律性を引き出すことを目的とした「支える支援」であるべきである。すなわち、授業では対話的・協働的な学修を促し、学外活動ではピアサポートや学生支援センターを活用して心理的・生活的安定を図り、キャリア形成においては早期から社会との接点を持たせることで、将来を見据えた自律的な学びを支援する。さらに、短大のように「顔の見える関係性」を重視する教育文化を4年制大学にも応用し、教職員と学生との信頼関係を基盤とする学修支援の在り方を模索していく必要がある。/ 現在、大学に求められているのは、自由放任による「自立の放任」ではなく、**主体的学びのための「環境的支援」**である。それは、学生を信じて突き放すのではなく、信じて支えるという姿勢に他ならない。短期大学の教育実践から得られるこのような示唆を、4年制大学教育の設計にも積極的に取り入れていくことが、これからの高等教育の質を高め、学生一人ひとりの可能性を引き出す鍵となるだろう。

大学の授業、卒論等は役立つのか、生成AIに尋ねる。

質問

「大学の授業は、卒論や卒業研究の為にあり、それに役立たない授業には出る必要がないと考えられた時代もある。大学の教員が学生の出席を取るのは野暮とされた大学もあった(京都大学)。卒論や卒業研究こそ、大学教育の集大成といえる。自分でテーマを決め、資料を探し、調査や実験をしてデータを集め、オリジナルな論稿を執筆する。」-この意見に関してどう思いますか? また大学の授業にほとんど出なかったという有名人は、村上春樹はじめたくさんいるように思います、大学の授業は、その後の人生に役立つのでしょうか?

ChatGPTの回答

非常に興味深いご質問ですね。以下、いくつかの観点から整理してお答えいたします。/ 1. 卒論や卒業研究は大学教育の集大成か?―基本的にはその通りです。大学教育の目的の一つは、「自分で問いを立て、自律的に調査し、論理的な結論を導き、社会に向けて発信する力」を育てることです。卒論・卒業研究は、それまでに蓄積してきた知識・技能・思考を統合して形にする場であり、教育成果の可視化でもあります。ただし、専門によっては卒業論文の代わりにポートフォリオや作品(芸術系)、実習やインターン(教育・看護・福祉系)などが中心になる場合もあり、「卒論が全て」とは一概に言えない点には注意が必要です。/  2. 「役に立たない授業には出なくていい」という考えは妥当か? これは古くからある議論です。「主体的な学び」を重視する立場からは、「受動的な座学」や「学生のニーズと乖離した授業」は時間の無駄という意見も理解できます。ただし、「そのときには役に立たないと思っていた知識が、後になって意味を持つ」ということも多く、知識の受容には「タイムラグ」があります。若い時期に多様な知見に触れておくことは、人生や職業選択の幅を広げるという意味で価値があるとも言えます。/ 3. 京都大学では出席を取るのが「野暮」とされたのか? これは事実として一定の根拠があります。京都大学は、戦前から「自由の学風」を誇りにしており、授業への出席を義務化せず、学生の自主性に任せるという文化が強かった大学の一つです。とくに1960~70年代には、「出席を取るのは学生を管理することであり、学問の自由に反する」という意識が、教員側にも学生側にもあったようです。実際、「教員が出席を取ったらブーイングが起こった」という逸話も残っています。もちろん、現代の京大では全ての授業で出席を取らないわけではなく、科目や教員によって異なります。ただ、こうした「自主性重視」の伝統は現在もある程度生きていると言えます。/ 4. 大学の授業にほとんど出なかった有名人たち(例:村上春樹)はどう評価すべきか? 確かに、村上春樹氏は早稲田大学在学中、「授業にはほとんど出なかった」と述懐しています。彼は映画館通いやジャズ喫茶経営にのめり込み、そこでの経験が小説世界に大きく影響を与えました。また、他にも大学にあまり通わなかった有名人(例えば養老孟司氏、ビートたけし氏など)もいますが、彼らは「大学の外で自ら学び、自分なりの知見を獲得した」タイプの人間です。つまり、「授業に出なかった=成功した」わけではなく、「授業以外の場で自分の頭で考え、行動した」という点が重要です。/ 5. 大学の授業は人生に役立つのか? これは以下のように分けて考えると良いでしょう:① 直接的な役立ち:資格取得、専門知識、職業スキルなど。医療・法学・工学などでは顕著。② 間接的な役立ち:論理的思考力、調査力、多様な価値観の理解など。人生の選択肢や思考の広がりに貢献。③ 無意識的な影響:大学時代に触れた本や議論、人間関係が、後の人生に影響することも多い。/  大学の授業そのものが役に立ったかどうかは、すぐには判断しづらいことが多いです。ただ、「学ぶ姿勢」や「考える習慣」を身につけることは、長期的には大きな財産になります。/ 結論:①卒論・卒業研究は大学教育の集大成である。②授業は必ずしもすべてが「直接役に立つ」わけではないが、人生にとって意味のある土台になる。③出席を取る/取らないは、大学や時代背景によるが、京都大学のような「自由の学風」も実在した。④ 授業に出なかった有名人も、自分なりの方法で学び続けた人たちである。