趣味

「卓球愛好会」は、地元(千葉市宮野木)のサークルなので、いろいろな年齢層、職業(定年退職の人も多いが)、趣味の人がいる。そこでは、基本的に卓球関連のことしか話さないが、時々、仕事のことや趣味のことのことに話がおよぶこともある。
最初の練習の時よく相手をしてくれるSさんは、絵が趣味で、仏像や猫の絵をデッサンしているという。この前も、読売新聞に書いた猫のイラストが載ったという。その日着ていたT-シャツに描いた猫のデッサンも、Sさんが書いたものだという。なかなか上手。趣味も、定年後の生活を豊かにする。

生涯スポーツー卓球

私は小学校の時、一番苦手な科目は体育であった。それは中高大続き、中学の時の水泳、高校の時の跳び箱、大学の時のトレイニング・クラス(運動テストがあり劣っている人が集められたクラス)と、屈辱以外のいい思い出はない。大学の教養課程が終わり、これで体育とは縁を切れるとほっとしたことを覚えている。

稲毛海岸の埋めたて地の公団の団地に住んだ時、その団地内にテニスコートが一面あり、そこでテニス・サークルが出来き、初心者でも可と書かれていたので、恐る恐る入会した。30人ほどのメンバーで、そのうちテニス初心者も10名近くいて、その10名には経験者が日曜の朝早く(朝7時くらいだったと思う)特訓をしてくれた。その中でいつまで経っても上手にならない人が3人いて(その中の3人に私もいた)、コーチをしてくれる人から呆れられ怒鳴られ続けた。それでも、テニスの面白さが分かりはじめ、叱責の屈辱に何とか耐えた。最初は、ウッド(木)のラケットだったので、スイートスポットは小さく、よほど打つホームを整え、ラケットの真ん中でボールを捉えないとボールは目指す方向に飛んでいかない。その後、次々とデカラケやラージのラケットが売り出され、ラケットにボールが当たりさえすれば、ボールが前に飛んでいくようになった。技術の向上しない私は、それはラケットのせいと考え、次々とラケットを買い替えた(10本は買ったと思う)。それから、、(テニスのことは、書こうと思うと次次、いろいろなことが思い浮かぶが、今日書こうと思ったのはこのことではない。テニスの話は別の機会に)

最近はテニスをやる機会がなく、その代わりに卓球をやっている。入れてもらっている「卓球愛好会」の集まり(練習)は、毎週日曜日の10時30分~2時間であるが、日曜日はいろいろ予定が入ったり、気分が乗らなったりして、私の参加は月1回程度である(今日は久しぶりに参加した)。メンバーの多くは、大学時代(いや中学時代)から卓球をやっている人で、定年後毎日卓球をやっている人も少なくなく、卓球を生涯スポーツと考えている人がほとんどである。そのような人の混じっての練習なので、皆に迷惑のかけっぱなしである。メンバーは本当に、卓球が好きで、休憩時間も卓球のことで、話している。皆、元気で、80歳に近い人も、3人はいる。「生涯スポーツ」を持つことが、健康の秘訣かもしれない。

学問の学際性について

伝統的な学問分野と新興の学問分野は、時に軋轢、対立を起します。伝統的な学問分野は自分達の既得権を守ろうとして、新興の学問分野に関して、自分達の基準から判定して学問としての要件を満たしていないと決めつけます。
私の専攻の「教育社会学」も初期の頃は、伝統的な「教育学」及び「社会学」から、ひとつの学問分野として認めないという攻撃を受け、必死に戦かったということを、私達の先生や先輩達から聞かされて来ました。
教育社会学が、教育という研究対象を、社会学の方法で分析する学問であるのなら、社会学の一分野でいいはずで、わざわざ教育社会学という分野を主張したり、学会(http://www.gakkai.ne.jp/jses/)を作ったりする必要はないわけです。それに甘んじない訳は、研究対象の「教育」の特質にあります。教育は、価値的なものを含み、また実践も重んじます。そのような価値的、実践的な教育を対象にするために、その研究方法も、社会学を基盤にしながらも、それとは違った独自なものを探求してきました。
教育社会学が、学問のひとつの分野として外から認められるようになってからは、内部でその方法論に関して、伝統派と新興派の論争がありました。たとえば、エスノグラフィーの研究論文が学会誌に最初に投稿された時、その評価が真っ二つに割れたことがあります(一人の審査員は10点満点で9点、もう一人は2点)。
教育社会学の学問的性格として、自己の立つ基盤を自己「反省」するという特質(新しがり?)があるため、伝統派も新興派の方法論を取り入れ自己革新を図り続けていますので、大きな対立には至らず、共存がはかられています。 
 価値的、実践的分野の研究には、学際性も大事になっています。それは社会学や文化学におけるカルチュラル・スタディーズのように、さまざまな方法論を許容、共存する研究分野のように思います。
 私の属している「日本子ども社会学会」(http://js-cs.jp/)は、子どもをめぐる学際的研究の学会として18年前に発足しました。そこには、保育学、児童学、心理学、教育学、教育社会学、教育心理学、社会教育学、社会福祉学、文化人類学、現場の教員達が参集し、子ども、子ども社会のことを、さまざまな立場から発表し、討論する場です。子どもというファジーなまた価値や実践も含む分野を研究、そして教育や保育実践をするためには、既存の学問分野を超えたあるいはそれを融合した視点や研究、討論が必要になっています。
私は他に「日本高等教育学会」や「異文化間教育学会」にも入っていたことがありますが(前者は今も)、その2つの学会も学際的で、いろいろな分野の人が集まり、活発な議論が交わされていました。
大学で教える科目も、自分の専攻だけでなく、学際的な分野を担当してみると、面白いかもしれません。私も、上智大学勤務時代、「多文化教育」という科目を、3年間担当し、いろいろな本を読みそれを紹介し、毎年50名以上の受講者がいて、自分の専門の「教育社会学」の授業より好評でした。今年は、敬愛大学で、「こどもと地域の教育」というはじめての科目を担当し、この分野に関して学びつつ、教えています。学生の反応はいかに?

フランス映画

敬愛大学のある先生が、これから学生に見せようとするフランス映画の紹介をしていて、その内容に心動かされたので、一部転載させていただく。確かに、フランス映画とアメリカ映画の終わり方は、違う気がする。昔、よくアラン・ドロン主演のフランス映画を見たが、大体最後は失意の底に落ちるか、逮捕されるか、死ぬかで終わっていたように思う。

「パリ20区僕たちのクラス」
(原作の訳書はF.ベゴドー著・秋山研吉訳『教室へ』早川書房2008年,DVD は映画と同じ題名)

 この映画は一昨年岩波ホールで上映されました。もちろんあの映画館で上映する作品はまず大衆受けはしないので、あまり話題にはなりませんでしたが、教育関係者にはとても面白い映画です。2008年のカンヌ映画祭でパルム・ド-ルを取りました。パリ20区という貧民・移民を多くかかえる区にある中学校のフランス語教師(べゴドーが主演)が、それらの子弟たちに対して悪戦苦闘するさまを描いた作品です。フランスの事例ですが、少子化を迎え労働力が絶対的に不足することが分かっている日本の将来の学校の姿を読みとることが出来るのではないかと思っています。そのような意味で普遍性があるテーマを扱っているのですが、ハリウッド映画と違って決してハッピーエンドにならず、あとは観客の皆さんの問題ですよ、と突き放して終わるところがなんともフランス的で気にいっています。
 日本ではアメリカの文化的な影響力が強いので、学生たちにはこの一種の突き放しに違和感があるかもしれませんが、圧倒的な文化体系(この映画の場合はフランスの)に異なる文化的バックグラウンドを背負った感じやすい思春期の子供たちが入ってくるとどのようなことが起こるのか、教師は身をもってどのように事態を打開しようとするのか、などなど参考にすべきところはとても多いと思います。さて、この思いが学生たちに伝わるでしょうか、楽しみにしています。(メールからの転載)

http://class.eiga.com/cast.html
http://d.hatena.ne.jp/mayuna629/20110626/1309056961

研究室

上智大学に勤務していた時の研究室は四ツ谷の14階にあり、部屋からは東京タワー、ホテルニューオータ二、迎賓館、ミッドタウンなどが見え、展望のよいところだった。
現在の敬愛大学の研究室は、稲毛駅から坂を上がった高台の6階にあり、そこも展望がいい。研究室の窓からは学園のグラウンドと遠くに千葉市内が見える。廊下に出ると総ガラス張りで、稲毛の浜や富士山が見える。定年で某所に置いた本もこちらに移さねばと思っている。14階という高層だと、地上の人の動きは点としてしか見えず、景色は壁絵のように固定化されてしまうが、6階だと人の動きも面として見え、飽きずに眺めることができる。特任の身分なのに、このような快適な研究室を提供してくれる敬愛大学に感謝している。