飼い犬の世話

近頃、うちの犬のソフィーは、家族が皆忙しく、あまり構ってもらえない。また、夏の道路は暑いので、散歩も、朝晩の短い時間しかできない。
犬は正直で、自分が構ってもらえない、大事にされていない思うと、だんだん情けない顔になってくる。
ソフィーには、「庭の置物でも友達にして遊んだら」と言っているが、そうもいかないらしい。

最近、近くのダイエーのペットショップで、売れ残った犬が100円で売られ、その犬は、飼ってもらえるように、必死で、来る人に愛想を振りまいていたという。犬好きの家人がそれを見て、「かわいそうで買いたくなった」と言っていたが、そんな理由で、ペットは飼えない。どれだけ、世話ができるのかが大事になっている。

面接試験、集団討議

これまで入学試験で、学生を面接する機会は多くあったが、逆に面接される立場から、面接について考える機会はほとんどなかった。
今、学科の学生が、教員採用試験の2次試験対策で、面接や集団討議の練習をしているのを、傍から見ていて、これらを上手にこなすのは、かなり大変だとわかった。
質問されたことに対して、瞬時に的確な答えを言わなくてはならない。定型の質問に対しては(「なぜ教員を志望しているのですか」など)、答えを用意しておき、それを答える場合が多いが、それも自然な感じで答えなければならない。知らないこと、考えてもいなかったことが聞かれた時の、受け答えも大事だ。
個人面談より、集団討議の方が難しい。人の意見を聞きつつ、それに自分の意見を付け加えていく。瞬時にどのようなことを言えばいいのかを判断し、適切な長さで、発言しなければならない。
昨日は、「道徳の教科化」や「いじめをなくす方策」などが集団討議の議題で、学生はそのテーマで,上手に議論していた。私は「自分がその一人だったらどう発言するだろうか」と考えながら見ていたが、かなり難しい。ちょうど、パネルティスカッションでの討議の時のような緊張感と集中力が要求される。
それにしても、面接や集団討議は、学生の日頃の勉強や思索の程度がよくわかる。それは、単なる知識の暗記では、底の浅さが見えてしまう。
私の教育原論や教職概論、そして教育社会学のゼミも、、社会学的な視点や多様な見方を提示して、いろいろ考えさせる内容なので、案外、面接や集団討議には役立っているかもしれないと思った。

幕張の浜で夕涼み

蒸し暑い日が続いている。昨日(28日)は、暑さでバテ気味のソフィーを車に乗せて、幕張の浜へ(ここは、8月3日の千葉市の花火の打ち上げ場所)。
もう日が沈んだ後で、海からの風が涼しい。遠くに幕張副都心。スリランカ出身の素敵なカップルと一緒に写真を撮る。犬にも時々、気分転換と夕涼みが必要だ。

『若き日に薔薇を摘め』

瀬戸内寂聴・藤原新也『若き日に薔薇を摘め』河出書房新社、2013年6月刊。

この書簡集の中味は、年寄り向けに書かれているわけではない。「若き日に摘み取った薔薇の蕾は人生の後半において、あるいは老いの中で花を咲かせるのだ」(p212)とあるように、二人の青春も振り返りつつ、含蓄のある話が満載である。
寂聴が「ほのかな色気が手紙には漂ってくる時もある」と書いているように、ドキドキするような手紙のやり取りだ。
この書簡の初出の「the寂聴」という素敵な雑誌が出ていたことも今回知り、何冊か手に入れた。

この中で、藤原新也は、歳を取ってからの健康法について、車のたとえで、「ときおり速度違反くらいのターボをかけること」をあげている。それは、「ほどほどの力を出しながら世の中を切りぬけていく」老いの術の対極にあるもので、ターボの後の休息を充分に取り、「踏む必要もないアクセルを踏まない」ことが必要と言う。心にとめておこう。

授業は人との出会いの場

「授業は人と人との出会いということだ」と知人の先生のメールに書かれていた。その先生は、大学の非常勤の授業の最後に、数人の学生から色紙をもらったという。よほど、学生たちはその先生との出会いや授業に感激したのであろう。
1~2年間のゼミの最後に学生から色紙をもらうことはあっても、半年間の大人数の授業の最後に色紙をもらうことは普通ない。その先生の授業への熱意が、学生の感銘を引き出したのであろう。

専任の大学の授業より、非常勤で教えている授業の方が、熱が入り、丁寧な授業を行うような気がする。実際、大学の非常勤手当は少なく、1コマに払われる手当は、専任の10分の1程度だと思われるが、専任校の授業より非常勤校の授業の方が、熱心にやってしまうのではないか。学生にとっては、1コマの授業として、専任も非常勤も関係なく(よく知らないというのが実情だと思う)、教員の熱心さと授業の中身に反応することであろう。

私も今年非常勤で行っている大学の半期の講義で、最終日の試験を行い、試験答案を受け取りながら、毎週熱心に授業を聞いてくれた学生たちと、これ以降、一生会うことがないだろうという「事実」(可能性)に驚いた。
(以前に、めったに会わない高齢の先生に、共通の知り合いの人の葬儀で会い、帰りに駅までご一緒し、別れの挨拶をした時、「この先生とお会いするのも、これが最後だな」と感じたのと、同類の気持である。

残り少ない(?)人生、人との出会いを大切にしたい。授業も同じことだ(後何回、授業を担当出来るのか?)。