月の沙漠

夏は海に行きたくなる。房総の海は、素朴さがまだ残っている。
外房の海は、太平洋に面し、波は荒いが、水はきれい。中でも、外房の中頃にある御宿海岸は大きな湾になっていて、海水浴に適し、夏は、若者や家族連れで、賑わっている。
そこは、大正ロマンの挿絵画家・加藤まさをが歌詞を書き世に広まった童謡「月の沙漠」の記念銅像(ラクダ像)が、海岸にあり、ロマンに満ちた場でもある。
知り合いより頂いた幻想的な絵(「ラクダ像」)を、ご覧あれ(絵を90度回転して)。
ラクダ.pdf2

http://www.onjuku-kankou.com/photocon/theme.html

スカイツリー

いつでも行けると思うと、なかなか行けないのが近くの名所。私は高いところからの眺めは好きだが(これまで、ニューヨークのエンパイヤーステート、シカゴのシアーズタワー、上海のテレビ塔からの眺めは楽しんだ)、東京タワーには、一度も上ったことがない。
千葉から東京に行く途中(錦糸町から徒歩15分)にスカイツリーが出来たが、いつでも行けそうなので、まだ行っていない。
昨日、妻は娘たちと、スカイツリーに行き(2度目らしい)、「イルミネーションがきれいだった」と感激していた。
来年「日本子ども社会学会」の21回大会を、千葉の敬愛大学で開催した折(2014年6月28日、29日)、スカイツリー見学のツアーも織り込もうか、と考えている(?)

蝶蝶を見ることは吉兆?

もう7月下旬だというのに、千葉では蝉の鳴き声を聞かない(先日、放送大学文京学習センターでは聞いたが)。また、蝶蝶を見ることも少なくなった。
藤原新也のCAT WALKでは、蝶蝶、特にクロアゲハを見なくなったのは、放射能の影響もあるのではないかと話題になっていた。その後、各地からクロアゲハを見たという情報が藤原新也のもとに寄せられ、氏自身も、千葉の房総で見た、と次のように、写真入りで報告している。

<ところで今日の16時15分あたり、家の前の崖っぷちに咲く山百合にクロアゲハがとまった。吉兆である。なぜならこの山百合、蕾のうちに猿が食ってしまい、ここ10年ほど姿を見なかったからだ。今年は枯れ笹の塊を周辺に配置し、カムフラージュした。
その結果、山の斜面に咲く山百合の半分が難を免れた。その10年ぶりの山百合に、ここのところ見ないと心病んでいたクロアゲハがとまった。吉兆意外の何ものでもない。嬉しい >  (shinya talk 7月12日より転載)

クロアゲハを見ることがなぜ吉兆なのかよくわからないが、吉兆ならば是非見たいと思っていたが、一昨日(25日)、朝出かける前に門のそばに大きなクロアゲハが飛んでいるのを見た。あわててカメラをカバンから出し、シャッターを切った。小さな点として写っている。
御蔭で乗る予定のバスに30秒の差で乗れず、予定の電車に乗れず、ギリギリで非常勤先の大学に着いた。ただ、その日は受講の女子学生4人と一緒にお好み焼きを食べたり(美味しかった)、上海からの御客さんに会ったり(お土産もいただいた)、放送大学で仕事がすすんだりと、いいことはたくさんあった。

昨日(26日)は、庭で2匹のアゲハチョウは見ることができた。この日は、神田外語の前期の授業が無事終わり、帰りに8月の学校社会学研究会の懇親会会場の予約をし(ついでにそこでランチ。美味しかった)、敬愛大学に行き、明日教員採用試験の学生に面接の練習をし(受かってほしい)、学内共同研究を7名の参加で無事終え(大学生は「生徒化」しているというよりは、「児童化]している、という議論があった)、家で家人の作った料理で美味しくビールを飲むことができた。 蝶蝶を見ることは、吉兆かもしれないと思った(というよりは、ピグマリオン効果?)。

放送大学面接授業

 この暑さの中、2日間(13日、14日)の、放送大学の面接授業(「子ども・青年の文化と教育」)の授業を無事終えることができた。この暑さと学年末であまり準備もできないままの面接授業で、受講生の方には申し訳ない気持ちが少しある。
 2日間で、1時間25分の授業を8コマ行うので、合計11時間20分のマラソン講義である。途中、グループ討論を1回(85分)、ビデオ視聴(15分)、学生を指名しての発言(20分×3回)を入れたので、全部の時間、私が話しているわけではないが、長時間であることは確かである。

放送大学の学生は、年齢も職業も関心も多様で、どこに焦点を置いて講義をすればいいのか難しく、どのようにしても不満に思う人はいると思うが、その受講態度はおおむね熱心で(私語をしたり携帯をいじっている人はいない)、授業中の書いてもらってコメントの中には、「この授業からいろいろなことを学んだ」「新たな発見があった」「先生の見方に共感できた」「自分の子どもとの関わりを見直した」「皆の意見が聞けてよかった」「さらに教育社会学を学ぼうと思った」など、こちらが励まされれものが多数あった。
 授業の最後にもらった拍手は、「無事終えてよかったですね!」という受講者のハラハラ感(?)からきたものだったのだろうか。
 以下がシラバス。。
【授業内容】
 現代における子どもや青年の成長や社会化の特徴はどのようなものなのか。それに人や集団(家庭、地域社会、学校)はどのように関わっているのか。そこにどのような問題が生じているのか。社会学、心理学、教育学の知識及び、受講者の教育体験もまじえて考え、今の時代に求められている教育や支援について考察する。参加者同士の意見交換も取り入れてすすめる。
【授業テーマ】
• 第1回 教育について考える
• 第2回 家庭、地域社会、学校と子ども
• 第3回 カリキュラム、受験、教師-生徒関係と子ども
• 第4回 高校教育と生徒文化
• 第5回 青年文化とジェンダー意識
• 第6回 大学生とキャンパスライフ
• 第7回 現代青年の過去、現在、未来
• 第8回 青少年支援と教育

テレビドラマ

藤原新也の『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』がテレビドラマ化されるらしい。
8月13日(火)から 毎週火曜日 午後11時15分放送【BSプレミアム・連続3回】。
http://www9.nhk.or.jp/dramatopics-blog/8000/146621.html

BSプレミアム特集ドラマ 短編シリーズ
『あなたに似た誰か』 あなたが町の一隅で懸命に営む、ささやかな日々の暮らし――
そこには、平凡だが、実は波乱万丈な人間の物語があふれている。「あなたに似た誰か」は、人間の<生と死>を見つめ続ける 写真家・藤原新也 の短編小説を原作に、町の片隅で懸命に暮らす人々のミステリーに満ちた人生の一コマを描く、温かくて泣ける連作短編ドラマです。

藤原新也のコメント(shinya talk 7月10日より転載)

拍手も涙もいらない。

東日本大震災の直後に現地を訪れたとき、死体安置所の光景に息を飲んだ。
棺桶が体育館いっぱいに並べられ、それに倍する人々が身元確認に訪れていたのだが、そこには湿ったような足音と青ざめた重い沈黙のみが漂っていたからだ。
その死体安置所を扱った「遺体」という映画のメイキングを見た時、主役の方が棺桶の間を興奮して動き回り、大きな声を出しているのを見て現実とのギャップを感じた。
昨今この情報過多社会におけるメディアや表現の領域においては他との差別化、そして情報の洪水に埋もれないための“過剰”が求められる。
今回拙著の短編小説集『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』の中から映像化された3編の作品は、そういった過剰の時代とは対極にある、ある意味で申しわけないくらい“とりたてて何か大げさなことが起こるわけでもない”日常的作品である。
したがってそれを見る者はおそらく様々なシーンに展開する、時に針が畳の上に落ちるくらい小さな音に耳を澄ます必要が生じるかも知れない。
つまりこれらの映像作品は黙っていてもいやおうなく“見せつけられる”作品ではなく、こちらが情報に耳を澄ましながら、そして登場人物の気持ちを汲み取りながら“見る(読む)”作品だと思う。
そして、それらのありふれた何処にでもあるような日常が見る側の気持ちの中に気づかぬうちにいつしか潮が満ちるかのような静かな情動を生んだとすれば、それは作品として成功したということだろう。
そういう意味でこの3編の作品には拍手も涙もいらない。
静かな共感さえあればいいと思う。