やっと、蝉の鳴き声が聞こえ、夏らしくなってきた。
各地から、花火大会の様子も、聞こえてくる。
ただ、気分は、まだ夏休みではない。学期末の採点を、山のように抱えている。
近頃、うちの犬のソフィーは、家族が皆忙しく、あまり構ってもらえない。また、夏の道路は暑いので、散歩も、朝晩の短い時間しかできない。
犬は正直で、自分が構ってもらえない、大事にされていない思うと、だんだん情けない顔になってくる。
ソフィーには、「庭の置物でも友達にして遊んだら」と言っているが、そうもいかないらしい。
最近、近くのダイエーのペットショップで、売れ残った犬が100円で売られ、その犬は、飼ってもらえるように、必死で、来る人に愛想を振りまいていたという。犬好きの家人がそれを見て、「かわいそうで買いたくなった」と言っていたが、そんな理由で、ペットは飼えない。どれだけ、世話ができるのかが大事になっている。
これまで入学試験で、学生を面接する機会は多くあったが、逆に面接される立場から、面接について考える機会はほとんどなかった。
今、学科の学生が、教員採用試験の2次試験対策で、面接や集団討議の練習をしているのを、傍から見ていて、これらを上手にこなすのは、かなり大変だとわかった。
質問されたことに対して、瞬時に的確な答えを言わなくてはならない。定型の質問に対しては(「なぜ教員を志望しているのですか」など)、答えを用意しておき、それを答える場合が多いが、それも自然な感じで答えなければならない。知らないこと、考えてもいなかったことが聞かれた時の、受け答えも大事だ。
個人面談より、集団討議の方が難しい。人の意見を聞きつつ、それに自分の意見を付け加えていく。瞬時にどのようなことを言えばいいのかを判断し、適切な長さで、発言しなければならない。
昨日は、「道徳の教科化」や「いじめをなくす方策」などが集団討議の議題で、学生はそのテーマで,上手に議論していた。私は「自分がその一人だったらどう発言するだろうか」と考えながら見ていたが、かなり難しい。ちょうど、パネルティスカッションでの討議の時のような緊張感と集中力が要求される。
それにしても、面接や集団討議は、学生の日頃の勉強や思索の程度がよくわかる。それは、単なる知識の暗記では、底の浅さが見えてしまう。
私の教育原論や教職概論、そして教育社会学のゼミも、、社会学的な視点や多様な見方を提示して、いろいろ考えさせる内容なので、案外、面接や集団討議には役立っているかもしれないと思った。
瀬戸内寂聴・藤原新也『若き日に薔薇を摘め』河出書房新社、2013年6月刊。
この書簡集の中味は、年寄り向けに書かれているわけではない。「若き日に摘み取った薔薇の蕾は人生の後半において、あるいは老いの中で花を咲かせるのだ」(p212)とあるように、二人の青春も振り返りつつ、含蓄のある話が満載である。
寂聴が「ほのかな色気が手紙には漂ってくる時もある」と書いているように、ドキドキするような手紙のやり取りだ。
この書簡の初出の「the寂聴」という素敵な雑誌が出ていたことも今回知り、何冊か手に入れた。
この中で、藤原新也は、歳を取ってからの健康法について、車のたとえで、「ときおり速度違反くらいのターボをかけること」をあげている。それは、「ほどほどの力を出しながら世の中を切りぬけていく」老いの術の対極にあるもので、ターボの後の休息を充分に取り、「踏む必要もないアクセルを踏まない」ことが必要と言う。心にとめておこう。