テニススクールというところ

運動不足解消の為、家の近くのスポーツクラブのテニススクールに月に2回くらいの割合で通っている。テニスをやる場所と仲間がいれば、スクールになど通う必要はないのだが、その2つを確保することが今は難しくなっている(武蔵大学や上智大学に勤務していた時は、教員のテニスクラブがあり、そこに所属し、テニスをすることができた。また武蔵大学ではテニスサークルの顧問をしていて、そのテニス合宿に参加したこともある。今の務める敬愛大学にもテニスのサークルはあるようで、いつか参加させてもらおうと思っている)。多少のお金を出すことで、テニスをする場所と人が確保できるという意味で、テニススクールは便利だ。さらにそれだけではない効用もある。
スクールは、家から自転車で5分のダイエーのスポーツクラブの中にある。同じレベルのクラスなら、いつ受講してもいいシステムになっている。受講できるクラスは週に何度もあるが、私は何かと忙しく、夏休みでもその時間がなかなか取れない、昨日(27日)は、夕食後時間ができたので、遅くだが21時40分~23時10分のクラスを受講することにした(登録は直前で可能)。
コーチはひとりで、受講生は私も含め、7人(私を除き、若い人ばかり、男2人、女4人、行くたびにメンバーは違う)。
準備体操から始まり(5分)、ぺアでのミニラリ―(5分)、その後は、3列に並んで、コーチの出す球を2球ずつストロークで返す。2列はフォアで、1列はバック。球が次々出るので、7人でも休む間がない。私は10分くらいで、息が切れ、この時間帯が一番辛い。
その後は、同じ態勢で、ストロークとダッシュしてボレー。この間にひとり50球以上は打っている。3番目のメニューが今日のメインになるが、ひとりひとりがコーチとストロークを4~5分程度して指導を受ける(私の場合、今更フォームを直されても直らないので、適当に聞く)。その間、他の人は、コートの両サイドを使い、ストロークとボレーで練習。これも次々ローテーションがあり、相手に迷惑がかからないように真剣にやる。4番目はコーチが最初に球を出し、試合形式。これも1球ずつで、ポジションが変わるので休む暇がない。最後は、点数制の試合形式で15分。なかなか面白い。このように、受講生は、1時間半の時間、ほとんど動き通しで(コーチの説明は随所で短く入るだけ)、で、効率のよい運動ができる。
その後は、スポーツクラブのスパ(人工天然温泉、サウナもある)に入り、疲れを取る。(1回、2500円の料金で、1時間半のテニスレッスンとその後のスパ。とても、得をした気分)、

海浜幕張のホテルでランチ

 今日(27日)は、ゼミの4年生が、教員採用試験が終わったので、その打ち上げで、海浜幕張のホテル・マンハッタン(http://www.the-manhattan.co.jp)でランチ。
 教員採用試験に受かってくれることを願うが、試験の合否はともかく、これまで努力してきたことに乾杯。
その後は、海浜幕張から検見川浜を通り、稲毛海浜公園まで、海岸線や砂浜を歩く。天気がよく、少し暑かったが、遠くにスカイツリ―やアクアラインが見える。海では、ウインドサーフィン。泳ぐ人もちらほら。稲毛海浜公園では、コスプレの若真達を幾組も見た。若者の未来に、栄光あれ。

新設、地方、小規模大学の健闘

大学の研修で、共愛学園前橋国際大学の副学長(大森昭生氏)の講演を聞く機会があり、大変勉強になった。
同大学は、1999年に短大を改組してできた新設の大学であり、しかも前橋という地方にあり、さらに1学部1学科(国際社会学科)で入学定員225名の小規模の大学である。(http://www.kyoai.ac.jp/)
このように、定員割れを起こす3要素(新設、地方、小規模)を備えながら、応募者は増え続け、偏差値も上昇しているという。
その大学の改革や教育の様子を聞いて、その理由が納得できた。そのいくつかを記憶にとどめておこう。
第1は、その大学のモットーがよい。①学生中心主義、②地域との共生,③ちょっと大変だけれど実力の着く大学。これらは、建前でなく、確かな実践で裏打ちされている
第2に、教職協働で、大学が運営されている。教授会ではなく、教員と職員の合同のスタッフ会議で、重要なことが決まるという。
第3に、80%以上の学生が群馬出身で、70%の学生が群馬県内に就職するという地域特性が生かされている。地域連携、地域共生の実践がさまざまになされているのである。
第4に、アクティブラーニング(AL)が盛んである。授業の75%がAL関連科目である。(今回の講演の中心はここにあった)、中心に、この大学のアクティブラーニングやそこから生まれる学生の主体的な学びや活動があり、それが、学生の大学生活満足度や充実感を高め、、大学に誇りを持つ仕組みを作りだし、好循環を起こしている。
第5に、大学の入試戦略が、大学教育と連動している。つまり大学開設当初は、応募者は少なく、定員割れを起こしていたという。それでも、入学水準を下げず(推薦基準3,5を維持)、一般入試も厳しくして、その大学で教育できる学生を入学させたという。また、資格(たとえば英検2級)を持った学生を学生に、授業料免除の特待生で入れるも、入学後の高いGPAの基準をその学生たちに課し、勉強の意欲を高く維持させる仕組みを作っている。また成績優秀者の表彰制度があり、それで学生の勉学を鼓舞してる。
入学させる学生の水準を一定以上に保つことにより、大学の教育や教室の雰囲気をよいものにし、学生が熱心に学び、その大学で学ぶことを誇りに思うようになれば、その評価は自然と外部に伝わり、大学の名声も高まることになる。その逆に、学力の意欲もない学生を入学定員確保の為に入れると、それは黴菌のように学内に広がり、学園を荒廃させる。
上記のように、いろいろなことを考えさせられる講演であった。

総進学率(粗就学率)について

高等教育の総進学率(粗就学率)という概念のあること、そしてその意義に関して、よく知らなかった。先日の野崎さんの報告から教えられた。不勉強というしかない。

「学校段階の教育制度計画上の相当年齢人口と、指定学校への全就学者との比率は粗就学率または総就学率と呼ばれる。」
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B1%E5%AD%A6%E7%8E%87)

日本では、学校や高等教育に実際行く年齢と計画年齢(たとえば4年制大学では18歳~22歳)がほぼ等しく落第も少ないので、総進学率は純進学率に近く、これまで注目されないできたが、これから高等教育を受ける年齢の幅が広がったり、パートタイム学生が増えてくれば、この総進学率(粗就学率)の意味は大きくなってくる。
さらに、純進学率ではなく総進学率(粗就学率)という言葉を使うことで、高等教育を受けるということは、年齢にはかかわりなくライフスタイルに合わせて、また全科生だけでなく、自分の好きなまた必要な科目の履修だけをとるパートタイムの学生・院生という選択肢もあるという発想をとるようになり、高等教育(大学)の意味が変わってくるという。

パーティー、懇親会のこと

 フォーマル、インフォーマルを含めていろいろなパーティーや懇親会に参加する機会がある。その感想を、書いておきたい。

 私は、大学で助手を4年勤め、各種のパーティを企画し、またその後もパーティーや懇親会の世話役に回ることが多かったので、つい主催者の側から考えてしまう癖がある。そのことへの自戒も必要であろう。
 フォーマルな会は、事前にきちんと計画され、厳粛な中で、型通り行われることが必須であろう。厳粛さがなければ、その会は、締りのない、だらけたもので終わってしまい、後に何も残らないであろう。
 ただ、私自身はこのフォーマルな会が苦手で、そこのスピーチで失敗したらどうしようと、前から気になってしまう。(実際は当日準備することが多いのであるが)
 特に、結婚式に呼ばれ、最初のスピーチを頼まれた時など、この会の為にどれだけ周到な準備がなされ、新郎新婦だけでなく、親戚縁者、同僚、友人一同が集まっている中で、冒頭のスピーチが会の雰囲気に与える影響が少なからずあると思うと、いい加減なことは言えず、かといって型通りだと気持ちが込められず、苦慮することになる。
 ただ、場の雰囲気で、用意した内容を変えることも必要で,そのあたりの兼ね合いが難しい。一度、結婚式で3番目くらいのスピーチを頼まれた時、用意した内容が全く合わないと場の雰囲気から感じ、用意した原稿を捨て、その場でアドリブで話し、切り抜けたことがある(同じようなことを、学会の共同研究の発表でしたことが1回だけある)。

 参加者の側からすると、型通り進む会は、安心であるが、少し退屈で、次に何が起こるのかのドキドキ感もあった方が楽しい。主催者の側にそれがないと、参加者にそれは伝わらない。しかし、主催者の側は、失敗した時のリスクの大きさ(それまでの準備が台無しになる可能性もある)を考えると冒険はできない。

 フォーマルな儀式的な会ほど、誰が来てくれたのか、どれだけ遠方より来てくれたか、どれだけ犠牲を払い来てくれたかが気になるところであるが、できたら、このような形式主義は捨てた方がいい。会には、来たい人が来て、楽しむことが第1だからである。
 しかし、なかなかこのようにできないのが、実情である。昔、呼ばれた結婚式に、(研究室の先生たちと休みの日まで同席したくないという気持ちから)、出席を断ったが、後でいろいろ言われ、困ったことがある。

 アメリカ式(?)のパーティーでは、儀式的なことはほとんどなく、最初の挨拶も、途中も終わりの挨拶もなく、いつの間にか始まり、勝手に人と話して、いつの間にか終わるということがあるのではないか。最近日本でも、このような立食パーティーも多い。
 ただ、この立食パーティーは知り合いがいる場合はいいが、ほとんど知り合いがいなくて、全体の話もないと、ただ黙々と一人食べ飲むだけで、空しい思いをする場合がある。
 また、着席で、席の近い人とだけ話すような懇親会もあるが、これも、周りの人と話が合わないと、はずれの場合もある。
 それを考えると、このような会では、全体の儀式やスピーチやイベントを充実してほしいと思う。

 どのような会でも、行くまでは気が重いが、実際に行ってみると、いろいろな人に出会え、楽しいことも多く、行ってよかったと思うことが多い。
 それにしても、いろいろな予定の人が、同じ時刻に、同じ場所に集まれるというのは「奇跡」に近く、どのような名目であれ、それが企画されるというのはいいことで、感謝されるべきことではないかと思う。