毎月1日に送られてくる辻秀幸氏の「風の便り82」を掲載する。今回は花の「なでしこ」が取り上げられている。花とジェンダーの関係も考察されていて興味深い。私も例によって生成AIにそのことを尋ねてみた。
質問と回答の要約―①男性を花にたとえる表現(伝統的にはほぼ存在しないが、牡丹・梅など例外あり)、②フランス語の花の性別(大多数が女性名詞だが、le lys など男性名詞もある、③なでしこジャパンの由来 (「大和撫子」の精神を女子サッカーに重ねた愛称(2004年命名)
毎月1日に送られてくる辻秀幸氏の「風の便り82」を掲載する。今回は花の「なでしこ」が取り上げられている。花とジェンダーの関係も考察されていて興味深い。私も例によって生成AIにそのことを尋ねてみた。
質問と回答の要約―①男性を花にたとえる表現(伝統的にはほぼ存在しないが、牡丹・梅など例外あり)、②フランス語の花の性別(大多数が女性名詞だが、le lys など男性名詞もある、③なでしこジャパンの由来 (「大和撫子」の精神を女子サッカーに重ねた愛称(2004年命名)
上記のことに関して、生成AIに意見を聞いてみた。
質問ー先の参議院選挙で、消費税を下げるべきか(A)、国民に一律給付をすべきか(B)、野党と与党で見解が違っていました。このAとBで、その手続き(実行を含む)の費用は、どのくらい違うのでしょうか(その仕事は主に公務員がするにしろ、それを時給で費用に換算して)。また今AIの技術が向上しているので、それをある程度AIにやらせれば費用は節約できると思いますが。そのような経済的な検討はなされているのでしょうか?
チャトGPTの回答は以下
私の住んでいる地区でも、昨日今日(7月26,27日)は、夏祭りがあった。近所の小さな公園にやぐらが組まれ、昼間はお神輿が出て、夕方から盆踊りが行われていた。地域の老若男女がそれぞれ集い、楽しんでいた。やぐらの上で踊っているのは年寄りの女性、周りで踊っている人も年寄りが多いが少し若い人もいる。やぐらの上で太鼓を叩いているのは小学生。屋台もいろいろ出ていて、子どもたちは綿あめ、かき氷、焼きそば、おもちゃ等を買い求め、嬉しそう。大人はビール。実家を久しぶりに訪れたらしい親子ずれも多くみられた。女の子の浴衣姿も多く、中学生の男女がにぎやかに集いはしゃいでいた。盆踊りを中心に、それぞれが楽しんでいるようで、夏まつりの情緒を感じた。以下は、WEBで「盆踊り」の項を検索すると出てきた説明(一部 抜粋)
<そもそも盆踊りとは、お盆の時期にお迎えしたご先祖様の霊をもてなし、一緒に過ごして送り出す行事です。夏のイベントの1つではありますが、ただの踊りではなく神聖な行事といえます。盆踊りの由来は、仏教の「念仏踊り」だとされています。民俗芸能がお盆と結びつき、現代の盆踊りになります。お盆にちなみ8月15日に踊って、16日にご先祖様の霊を送り出すという流れです。室町時代から始まったものであり、およそ500年の歴史を持つ厳かな行事の1つといえます。/ 盆踊りはご先祖様のおもてなしをするという意味合いのほかに、地域の人々との交流という要素もあわせ持っています。これは家を出て独立している人が久しぶりにお盆の時期に帰省し、盆踊りで旧友と再会したり、近所の人々と楽しく会話して踊ったりすることで仲を深められるからです。また、江戸時代からは、男女の出会いの場としての機能も果たすようになりました。/ 盆踊りは基本的に誰でも気軽に参加できるイベントです。地域によっては踊り手が決められている場合もありますが、ほとんどの場合、飛び入り参加がOKとなっています。そのため「初めは踊る気がなかったけど、見ていたら踊りたくなった」と途中参加する人も多いです。/ 盆踊りは足の動きが一番のポイント!盆踊りの動きは手よりも足の動きに重点を置いて振り付けられています。これは「地上にいる人間が地面を踏むことで、お盆にお迎えしたご先祖様の霊を封じ込める」という意味の振り付けです。楽しそうに見える盆踊りですが、ご先祖様を送り出す儀式でもあるため、少し切ない雰囲気も漂わせています。また反対に、お盆に入り霊を迎えるときに踊る「舞」は、手を中心とした振り付けです。盆踊りは普段着でも大丈夫ですが、テンションを上げるなら、ぜひ浴衣で参加してみてください。写真映えしますし、より一層楽しい時間を過ごせるはずです。>>https://haa.athuman.com/media/japanese/culture/2284/
床屋に行くのを苦痛に感じる。その理由の第一は、(お金を払うとはいえ)自分の為に誰かが何かをしてくれる(自分は奉仕されるままになっている)ということが申し訳なく感じ、なるべくそのような機会を避けたいと思う。同じ理由でタクシーにも乗りたくない。もう一つの理由は、散髪してもらっている間、自分の顔をずーとみていなくてはらないのが苦痛。普段自分の顔を見るのは朝、顔を洗う時くらいで、30分以上自分と対面しているのは耐えられない。それで、いつも床屋に行くのが延び延びになり、髪は伸び放題でぼさぼさになり、その時点で仕方がなく床屋に行く。今日は、久しぶりに近所の床屋に行った。
昔アメリカで床屋に行った時、鏡を背にして座らされたことを思い出した(終わると椅子を回転し、散髪後の自分の頭を見ることができる)。その理由を、例によって生成AIに聞いてみた(最初は箇条書の回答だったが、エッセ風にも直せるというのでそれをお願いした)。以下がその質問と回答(なかかな見事な回答で感心した)。。
質問―日本の床屋では、鏡に映る自分と向き合いますが、アメリカの床屋では、鏡を背にして座ります。この違いは何を意味していますか。他の国はどうでしょうか。わかる範囲で教えて下さい。
チャトGPTの回答
鏡の向こうに映る文化——日本とアメリカの床屋に見る「自己」と「他者」の関係
理髪店の椅子に座ったとき、あなたは鏡の自分と向き合うだろうか、それとも鏡に背を向けるだろうか。この一見些細な違いの中に、実は私たちが生きる文化の深層が潜んでいる。/ 日本の床屋では、客は最初から最後まで鏡に向かって座る。髪が切られていく過程を、客自身が逐一確認できる。変わっていく自分の姿を見つめながら、「ここをもう少し短く」「この部分は自然に流してほしい」といった対話が交わされる。理容師と客のあいだにあるのは、技術に対する信頼だけではなく、一緒に仕上がりを作っていく共同作業の感覚だ。/このようなスタイルは、日本人の価値観をよく表している。すなわち、丁寧な確認と自己管理を重んじる姿勢、「おもてなし」や「見た目の清潔感」といった外見への配慮が、カット中の鏡越しの自己確認という形に表れているのだ。鏡の中にあるのは、単なる外見ではなく、社会に出ていく「整えられた自己」である。/ 一方、アメリカのbarbershopでは、鏡を背にして座るのが一般的だ。理容師は無言で手を動かし、客はリラックスして雑談を楽しむ。カットが終わった後、椅子がくるりと回され、初めて鏡の中の自分と対面する。「どうだ、カッコよくなっただろう?」という理容師の誇らしげな表情がそこにある。/このスタイルもまた、アメリカらしい。プロフェッショナルへの信頼、プロセスより結果を重視する価値観、そしてbarbershopがただのサービス提供の場ではなく、地域社会の社交空間であるという文化が反映されている。鏡に映る自分を逐一確認するよりも、信頼する理容師に任せ、完成した自分に驚くことがアメリカ流の美意識なのだ。/ フランスや韓国、中国など他の国々も、それぞれの文化的背景に基づいたスタイルを持っている。フランスでは、美容室では鏡に向かうのが一般的だが、barbershop的な空間ではアメリカ式も見られる。美は自己表現であり、他者の目を意識した演出でもあるというヨーロッパ的価値観が、そこにある。韓国では日本と同様、鏡に向かうスタイルが主流だが、それは美容に対する高い意識と、自己演出への強い欲求を映し出している。中国では、地域や価格帯により両方が混在するが、効率とコスト重視の合理主義が、鏡を背にするスタイルに表れていることもある。/ 鏡の向きは、単なるインテリアの違いではない。それは、私たちが「自己」をどうとらえ、他者との関係をどう結ぶかの表れである。自分を見つめながら整えていく日本的スタイルと、完成した自分を信頼して託すアメリカ的スタイル。そのどちらにも、それぞれの文化が育んできた「人間のあり方」が映っている。/ 鏡の前に座るとき、そこに映るのはただの顔ではない。そこには、その人が属する文化が、静かに姿を現しているのだ。
質問―私達の日々の生活は、或るものを選択するかしないかという2者択一の選択の連続です。ただ、実際はその中間の選択があればいいのにと思うことも多いです。精神科医の野田正彰氏は、中間のあいまいさに耐える心性も大事と述べています。あいまいさに耐えることの意義を論じて下さい。
ChatGPT:の回答
とても本質的なご指摘です。「あいまいさに耐える心性」は、現代のように即断即決・白黒思考が求められる社会において、忘れられがちですが、実は人間関係や精神の安定、さらには創造性や倫理性の基盤として極めて重要です。以下、その意義をいくつかの観点から説明します。/1. 人間の現実は本来「あいまい」だから-私たちの多くの日常的な判断や感情、関係性は、明確な「正解」があるものではなく、複雑で矛盾を含みます。「好きだけど嫌いな部分もある」「やるべきだが、やりたくない」• 「賛成だが全面的ではない」.こうした“ねじれ”や“ゆらぎ”を持ちながら人は生きています。にもかかわらず、二者択一(binary thinking)を強いられると、自分の気持ちを偽ったり、他者を無理に断定したりすることになります。/ 2. 他者理解と共存のために-異なる価値観や文化背景を持つ人々と共に生きる社会では、他者と完全に理解し合うことは不可能です。しかし、「理解できないから排除する」のではなく、「完全には分からないが、分からなさのまま受け入れる」姿勢が必要です。これが「あいまいに耐える」という心性であり、まさに**寛容性(tolerance)**の土台でもあります。/3. 精神的健康のために-精神科医・野田正彰氏が言うように、「すぐに白黒つけようとする」ことは、精神的にも大きな負荷をかけます。特に「決められないことを恥じる社会」では、自分を責めたり、不安を抱え込んでしまうことがあります。あいまいな状況に「一時的に留まる」ことができる力は、自己受容や心の余裕につながり、うつや不安の予防にもつながります。/4. 創造性と思考の深化のために-あいまいな状況に「すぐに結論を出さずにとどまる」ことは、実は創造的思考に必要なプロセスでもあります。哲学者ハンナ・アーレントは、「思考とは二つの極の間を往復する対話である」と述べています。一つの極にすぐに飛びつくのではなく、対立する意見や状況のあいだにとどまり、考え続ける力が、新しい価値や真理を生むことがあります。/5. 現代社会への批判的視点として現代のメディアやSNS、政治言論は、しばしば極端な立場に人々を誘導します。「敵か味方か」「賛成か反対か」。このような分断の力学に抗うには、「どちらとも言えない」「まだ分からない」と言える勇気が必要です。それは、逃避ではなく、むしろ一段深いレベルの誠実さであり、「今すぐ答えが出ないことを、答えが出ないまま扱う」倫理的態度です。/ 結論:あいまいさに耐えることは「弱さ」ではなく「成熟」である-あいまいに耐える心は、私たちが複雑な現実を誠実に生きるための知恵であり、現代においてますます必要とされる「バランス感覚」や「間の文化(日本的感性)」とも通じます。必要なのは、即断即決のスピードだけではなく、「答えのなさに耐えられる深さ」なので(補足の質問とその回答は下記)