大学のゼミ

大学のゼミの位置づけは難しい。特に1年や2年の時のゼミの内容に、いつも悩むことになる。(3年や4年のゼミは専門的なことや卒論・ゼミ論や就職試験に向けてのことをやればいい)。
ひとつの考え方として、1年生の最初の時こそ、文献の読み方やレポートの書き方の基礎をきっちり叩き込む必要がある。それが出来ていないと後で苦労するし、それこそゼミという少人数の個別指導のできる場で、やるべきという意見がある。
もう一つの考え方は、1年生の時は、大学に馴染み、友人をつくことが一番大事である。ゼミはその為の一番有効な場である。ゼミでは、メンバーのコミュニケーションをはかり、楽しいゼミにするのが一番である、という考え方がある。
その両方ができるのが、好ましいことであろう。
私の場合は、どちらかというと後者重視で、今日も、2年ゼミは、近くの公園で、バレーボール、野球、バトミントンとスポーツをし、、その後連れだって、近くの店(『びっくりドンキー』)で、お昼を一緒に食べた。
メンバーの参加は12名中11名と、出席率はふだんのゼミよりよく、今日初めてゼミにば顔を出した女子学生もいて、遊びの効果はあったように思う。次回以降、これが、学生のゼミへの出席と勉学の方にむかってくれれば、嬉しい。

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大学祭の看板

いま大学祭の季節である。その中身も気になるが、その表看板も気になる。
敬愛大学でも、その看板作りに学生達がかなりの時間をかけて作っていたのを目にしてきた。表看板は目立ち、その大学の学生のセンスが問われる。
通りかかりの穴川にある理工系の専門学校でも、大学祭が行われていて、大きな看板が入口に掲げられていた。専攻にデザイン科があるのか、なかなかセンスのいいものが掲げられていて、感心した。

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昔、勤めていた大学の変貌

自分が昔勤めた大学(上智大学)に行くと、緊張する。なぜなのだろう?
めったに訪れないのだが、立ち寄った理由は、大学の保養施設を研究会の為に使わせてもらうために申し込みが必要だった。学科の研究室に行けば、知り合いの事務の人やかっての同僚の先生に会えるかもしれないが、お互いに戸惑うことになりそうなので、それはしない。
施設課だけに立ち寄り、手続きを済ませる。そこには、少しだけ顔見知りの大学職員がいて、親切に対応してくれ、ほっとする。かってのゼミの卒業生がその課の職員に移動になっていて話しかけられ緊張が少し薄れる。
地下の購買書籍部に寄ったら、丸善から紀伊国屋に代わっていた。しかし、相変わらず女性のファッション雑誌が大きなスペースを占め、大学の書籍部らしくない。大学の書籍部も、大学の顔であり、また教育効果も大きいというのに。(いくら女性のファッション雑誌が売れるからといえ、大学の書籍部がそれに多くのスペースを割くのは、大学と書店の見識が問われる。)
大きな建物の新築工事が進んでいて、上智大学の勢いを感じた。ただ、昔のキャンパスの面影が薄れていくのは、昔を知っている人間からすると、少しさびしい。

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デジタル教科書の健康面への影響

以前に書いたように、「文部科学省「デジタル教科書」の位置付けに関する検討会議」という有識者会議があり、児童・生徒用のタブレットの導入について、多方面から検討が行われている模様である。(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/110/index.htm)
その中で、一つ気になることがある。もし、児童・生徒用が紙の教科書に替わりにタブレットになった場合、子ども達は、一日にどのくらいの時間、タブレットや電子黒板やスマホやテレビといった電子画面を見ることになるかということである。その健康問題が気になる。
現在でも、子ども達は、スマホやゲームやテレビ、ビデオなどで、電子画面を見る時間はかなりある。正確な数字は今あげられないが、3時間以上の子どもが半数以上はいるのではないか。
それに、学校の教科書がタブレットになると、学校にいる時間6~8時間のうち、半分の時間をタブレットや電子黒板を見ているとすると、1日のうちで6時間以上は、電子画面を見ることになる。
大人で、そのように長時間電子画面を見て仕事をする人はかなりいると思うが、成長期の子どもが、そのような長時間電子画面に向かうということの影響は、健康面のみならず精神面にかなり大きな影響を及ぼすはずである。
その検討会議の配布資料に、日本小児連絡協議会「子どもとICT~子どもたちの健やかな成長を願って~」委員会委員)の報告はあるが(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/110/shiryo/__icsFiles/afieldfile)、それは現在の子どもたちの長時間のICT接触の健康問題を扱っているだけで、教科書がデジタル化された時の問題まで触れていない。
有識者会議のどこかの文書に、「教科書のデジタル化はやってみないとその効果はわからない、やってみて問題を修正すればいい」といった無責任なことが書かれていたように思う。これは、教育の世界でよく使われる手で、きちんとした実証的データなしに、「理想的」な思いだけでやって、悲惨な結果になることがよくある。(昔の都立高校の学校群制度もそうであった。これは既存のデータからシュミレーションすればすぐわかることであった)。
教科書のデジタル化に関しては、子どもたちの電子画面への接触時間の予測、それの健康や精神面のへの影響というデータもきちんととって、検討してもらいたいものである。

大学教師と講義内容

これはうろ覚えだが、社会学者のデュルケームが大学で教えた時、講義は2週間に一度程度だが、その講義内容は斬新で、新しい理論がそこで次々話されたと、聞いたことがある。
社会学者の加藤秀俊だったと思うが、大学の講義のテーマや内容は毎年変わり、必ず新しいことを講義する。そしてその講義が終わると、その内容は次ぎ次と本になる。
大学の教師は研究者であり、このように研究した新しい内容を講義し、それを本として残す。このように実践している大学教師も少なくないであろう。しかし、凡人の自分には、それができないできてしまった。

同じことを学生に話しても、その時の話し方や学生の特質によって、その内容がうまく伝わったり伝わらなかったり、受けたり受けなかったりする。それは(大学)教師としての醍醐味であろう。

私がよく話すことで、学校の潜在的カリキュラムのことがある。学校には意図して教えようとする「顕在的カリキュラム(教科書等)」の他に、「潜在的カリキュラム」というものがあり、教師が意図せずとも生徒や学生に伝わってしまうことがある。
その例として、いくつかのことをあげる。たとえば、男女で違うカリキュラムは、社会に出てからの性別役割分業を正当化する。無意味で厳しい校則を守らせることは、社会の不法な法律にも黙って従う心性を養成する、等々。
もう一つ、この例がなかなか理解されなかったり、誤解されたり、白けてしまうことがある。 
「私のこの退屈な授業に90分間堪えることができれば、これから皆さんが社会に出ていって、世の中に多い繰り返しの多いどんな退屈な仕事に耐えられますよ」と説明する。

今日(23日)の神田外語の授業でこれを、授業の終わり間際に話したが、その意味が分かってくれた人が多かったようで、笑いのうちに授業が終わったようでほっとした。
昔、上智大学の授業で、これを話した時、「自分は退屈な仕事に就く気はありません」とか、「先生の授業は退屈ではありませんよ」という見当外れのコメントをもらったことがある。
今日の学生のコメントには、「カリキュラムの内容について、先生の皮肉を含んだ話(実質的機能をもたらす)はおもしろかったです」というものがあり、私の意図は理解されたと思う。少しは私の話し方が、上手になったのかもしれない。