地震、中央構造線、地層

熊本では地震の余震が続き大変なことであろう。千葉ではその揺れを感じることはないが、地震のニュースで熊本の人の大変さを思いやり、5年前の東北地震の時を思い出し、地震の怖さを改めて感じている。
熊本が「中央構造線」の尾っぽの部分にあたり、その尾が跳ねた後は、それが北上すると阿蘇、大分、愛媛を経て、要の伊那谷(長野)に至るという説もあり、警戒を要する。

地震と関連していま地層に注目が集まっているが、地元の千葉に関連する記事が、昨日の天声人語(朝日新聞)に載っていた。

天声人語 (2016年4月15日より転載)
地質学者の間で「チバ」が国際的な注目を集めている。約77万年前の地球の環境激変をくっきり刻む地層が千葉県市原市にあるとわかったからだ。地磁気のN極とS極が入れ替わった跡をいまに伝える地層だ▼地球は一つの磁石である。十万年、百万年単位ではNとSの向きが何度も逆転した。そのうち直近の逆転の痕跡が千葉で見つかった▼国際地質科学連合(IUGS)の専門家たちが昨夏、現地を視察した。地質年代の境目を示す「国際標準模式地」に選ばれると、「チバニアン」という地質年代が生まれる。「千葉時代」である▼いつごろの年代の話か。茨城大などと共同でチバニアンを推す国立極地研究所の菅沼悠介助教(39)に尋ねた。「いま私たちが生きているのは新生代第四紀完新世(かんしんせい)。そのひとつ前、第四紀更新世(こうしんせい)の中期のことです」。77万年から13万年前あたりを指すそうだ。ただイタリアも、南部イオニア海付近の2カ所を挙げて「イオニアン」を提唱。日本との一騎打ちになっている▼日本はかつて地磁気研究で世界をリードした。昭和の初め、京都帝大の松山基範(もとのり)教授が「過去に地磁気が逆転した」と発表。その功績で直近の逆磁極期は「マツヤマ期」と命名された。地質学界でチバニアンが採用されれば、それ以来のこととなる▼いま研究チームは年内の申請をめざし、資料収集や論文作成に追われる。呼称の定まった地質年代を見ると欧州由来の名が多く、日本の地名はない。千葉の人々とともに見守りたい。

春の花(その3)

春の花の中で、ポピーもかわいい。
一株買ってきて小さなプランターに植えたポピーの花が、天に向いて、次々と咲いている。
さらに、野草、あるいは雑草と思われるポピー(の一種?)が道路や庭の隅に次々咲く季節となった。庭の隅に咲くポピー(の一種)は、昨年まで雑草と思い抜いていたが、今年はその健気さに打たれ、そのままにするつもり。
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現代の学生の現状

そろそろ、いや大分前から学生との年齢差は大きく開いている。半世紀以上の差である。今日(13日)の敬愛の2年生のゼミで一人ひとり自己紹介をやってもらったが、学生たちが喜び、笑うポイントがいまいちわからない時がある。
このような私が、今の学生の現状に関して、何か書いていいものかと迷うことがある。最近書いた原稿を掲載しておく。何か、ポイントを外してなければいいのだが。

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大学の学問について

今日(13日)は、敬愛大学のこども学科の1年生向けの「教育原論」の第1回目の授業。
千葉県の小学校教員を目指す学生が多い(大半)ので、千葉県教育委員会の求める教員像(*)や千葉県の小学校教員採用試験の倍率(2.8倍―多分全国一低い倍率)や教員採用試験の内容(1次は教職教養60点、専門教科100点、集団面接40点等)の内容の資料を配り説明した。
*千葉県・千葉市が求める教員像
(1)人間性豊かで、教育愛と使命感に満ちた教員
(2)児童生徒の成長と発達を理解し、悩みや思いを受けとめ、支援できる教員
(3)幅広い教養と学習指導の専門性を身につけた教員
(4)高い倫理観を持ち、心身共に健康で、明朗、快活な教員

それに対して、学生たちは神妙に聞いていたが、それとは別に、「教育原理」という授業の内容に関連して、大学における学問いついて、鷲田清一氏の言葉(朝日新聞,2016年4月7日、朝刊)を資料として配り、説明した。
つまり、教育の原理を学ぶということは、試験や実践に役立つことを学ぶというよりは、教育について歴史的、哲学的、社会学的に考察するということである。鷲田氏の言葉で言えば、「長いスパンで見るとか、根源的な原理を探す」ことや「立体的に見る」「視座」)から教育を考えるということである。
学生の授業の感想(リアクション)を読むと、後者(大学における学問の意味)に関しても、理解を示してくれる学生が多く、心強く思った。

全ての研究は「文」に通ず 哲学者・鷲田清一
 文系の「文」は、言うまでもなく文化の「文」です。その研究をするから文系です。そして、僕に言わせると、大学の研究は突きつめればみな文系につながります。
 たとえば、医療の技術は医学部でやっていますね。病気だとか治ったとか、数値で決めるけれど、そもそも健康と病の差って何なのか。それを考えるのは文系の学問です。都市工学は工学部ですが、都市生活の豊かさって何なのかと考えるのは文系です。反対に、心理学は文学部にあることが多いけれど、実験して統計をとって分析して、と理系の手法で考える学問です。
 文と理は対立する学問ではないんですね。一つのことを両面から探るのが学問なのです。もっと言えば、言葉の意味でも対立しません。文は織物の「文(あや)」、理は石の「肌理(きめ)」、どっちも模様、ないしは筋のこと。見極めようとするものは同じです。だから、大学ではみなが文を学ぶんだと思ってください。ちなみに、文化の文に対立するのは「武」です。
 そう考えると、危機にあるのは文系学部ではなくて「文化」であり「文」です。物事をものすごく長いスパンで見るとか、根源的な原理を探していくというのが文の特徴ですが、その評価の物差しが短期的になってきました。すぐに成果が出るかでお金の集まり具合が違ってくる。腰を据えてやる研究の予算はどんどん削られています。それに流されたんではよくない。
 国家百年の計といいますが、100年先を見通すのは、信念があっても容易にできるものではありません。仕事がある人は、いまの課題で精いっぱい。そこで学問なんです。
 大学というところは、目下の仕事に取り組む人の代わりに、あるいはその委託を受けて、役に立つか立たないか分からないことでも必死に探求するところです。100年後にどういう社会になっていればいいのか、いま何をすればいいのかと考えるときに、歴史学や哲学は数千年前までさかのぼって、具体的な事例、論理的な可能性を丹念に調べる。そして、短期的な視野とは別の可能性をいまの時代に示せるよう準備しておく。それが学問の役割です。
 一つのことを徹底的に考え抜いてください。その問題の解決のためにあらゆる方法を試し尽くす。すると、後で別の課題に取り組むときもその可能性と限界がよく見えてきます。
 視差という言葉があります。見る目が二つあって、ものは立体的に見えます。幅広い視差を持つ、でかい人間になってください。物事を多くの面から見られる人、多くの人に思いをはせることのできる人に。
 いま大学で学び始めようとする君たち。どうぞ「文」を究めてください。(聞き手・村上研志)(朝日新聞,2016年4月7日、朝刊より転載)

春の花(その2)

昨日(12日)より、敬愛での私の授業も始まり、ゆっくりお花見をする時間も余裕もなくなってきた。 知人が茨城県のチューリップ畑(http://hitachikaihin.jp/flower-calendar/spring.html)を見に行き、その広大さ,綺麗さに感動して帰ってきた。ネモフィラやスイセンもよかったという。羨ましい。       IMG_2172 IMG_2173 IMG_2180