11月上旬の日光は、紅葉には少し遅い時期であるが、その分渋滞もあまりなく、紅葉を楽しむことができる。
日光は、武蔵大学も傘下にある東武グループの影響力の強い地域であり、おっとりしていて、気持ちの落ち着くところが多い。
例年にない寒さ?
ハロウイーンの地域差
今日(30日)千葉の外房の御宿に行ったが、雨が降り寒かったせいもあり、人が少なく、店の多くも閉まっていて、さびしい限りであった。地方は人がいなくなり、さびれていく様子が感じられた。一方、渋谷などでは多くの若者が集まり、にぎやかにハロウィーンを祝っているのが報じられて、その格差に驚いた。
うちの近く(千葉市)も田舎だと思うが、商店街がハロウィーンにちなんで、子どもたちにお菓子を配ることをしていて、子ども達のはしゃぐ姿が見えたようだ。
仙台にいる水沼さんより下記のコメントをいただいている。
<ハロウィーンは仙台でも盛んですっかり定着しているようです。二十年ほど前のアメリカ研修旅行の時、サンフランシスコの街角でこのハロウィーンに初めて遭遇しました。ちょうどゲイの人たちの行進があり、そのあまりの奇抜さに度肝を抜かれたのを覚えています。私の子どもの頃、小正月の夜に家々を回ってお菓子などをもらう「ちゃせご」という行事がありました。今でも一部に残っているようです。日本は昔からインド、中国、ペルシャ、ポルトガル、オランダ、アメリカなどから新たな文物を取り入れてきたという歴史を持っています。最近ではバレンタインデーとこのハロウィーンが最たるものだと思います。このようなチャンプルーな日本文化にもっと注目し、世界平和のベースにして欲しいと思います。>
エリート大学の教師の苦労―師弟関係の悲劇
偏差値の高いエリート大学の教師は、大衆化した大学の教師とは違った苦労があるのかも知れないと、ふっと思った。
それは、エリート大学の学生が皆優秀というわけではないにしても、なかには教員以上に優秀な学生がいるせいである。
そのような学生がクラスに一人,二人いるだけで、教員にとっては、怖い存在である。自分の講義が易し過ぎると、その学生から軽蔑されるのが怖い。プライドの高い大学の教師にとって、学生から専門(学問)のことで軽蔑されることは、最も嫌うことである。
そこで、教師は、なるべく難しい内容で、わかりにくい説明で、学生を煙に巻こうと考える(注)。そのような方法で、自分のプライドを守ろうとする。それは意識的にではなくても。無意識にしている可能性が高い。
それで、割を食うのは、エリート大学の普通の学生たちである。教員の講義が難し過
ぎて、さっぱり理解できない。教員が、理解できないようにしゃべっているとは気が付かず、自分の頭が悪いのかとか、自分はこの分野に向いていないのかと悩むことになる。
大衆化した大学の教師は、そのような心配はなく、そのような気遣いをすることはない。学生の理解を助けるため、わかりやすい内容で、具体的な例を挙げ、学生の興味をひく方法で授業を進める。 学生にとっては、大衆化した大学で学んだ方が、絶対に理解が進むと思う。
またこれは大学院レベルの問題かもしれないが、エリーとの大学では、教員は優秀な教え子の院生が、自分を追い越していくことを恐れなければならない。師弟の実力が逆転する時に、いろいろ悲劇が起こる。
それらは、師弟関係の問題として、漱石の「こころ」の分析(作田啓一『個人主義の運命』岩波新書、矢野智司「先生と弟子の物語」)はじめ、「タッチ」の分析(藤村正之「言葉と心―『タッチ』の社会学的理解」)でもなされている(添付参照)。
注 このことは、別の言い方もできる。「教師は、自分の研究成果だけでなく、未完成でも研究のプロセスを学生に提示し、研究の醍醐味を教えることも必要である。それは講義に緊張感を与え、学生の新鮮な反応を引き出す」(武内清『学生文化・生徒文化の社会学』ハーベスト社、2014年、20ページ)
追記 上智大学で「公民科教育法」を長く非常勤で担当されている小原孝久先生より、下記のコメントをいただいた。ご了解を得て掲載させていただく(一部略)。
<なかなか面白い内容でした。しかしエリート大学の教師だからといって、「なるべく難しい内容で、わかりにくい説明で、学生を煙に巻こうと考える」などということが実際にあるのでしょうか。教師の力というのは、単なる知識の量だけではなく、それらの専門の知識がどのような構造をしているのか、他の事項や知識とどう関連しているのかなど、全体的な構造や骨組みを知っているからこそ教師なのだと思います。優秀な学生といえども、そのような構造的な知識、全体的な知識まではなかなか持てないのであって、教師はそのような点で勝負すればいいのではないでしょうか。 例えをあげるなら、最近の教室では学生はみんなスマホを持っており、断片的な知識はすぐ調べることができます。しかしスマホ的知識はあくまで断片的なものであり、その知識の構造や他の事項との関連などを理解した知識(=「生きた知識」)ではありません。教師の知識というのは、スマホ的知識の集合ではないということです。教師が「生きた知識」(=その知識の構造や他の事項との関連などを理解した知識)を持っていれば、断片的な知識を持つ優秀な学生の存在を恐れることはないと思うのですが。>
デジタル教科書に対する教育現場の意見
私も参画している公益財団法人中央教育研究所の研究プロジェクトで、デジタル教科書に関して、教育現場の教師や児童・生徒がどのように思っているのか、2回目の調査を昨年の10月に実施し、その報告書を最近刊行した。
『研究報告 No.88、「教師と児童・生徒のデジタル教科書に関する調査(その2)」
―小学校・中学校を対象に―』 (平成28年9月30日発行)
その報告書の内容は、中央教育研究所のHPにも掲載されている。
http://www.chu-ken.jp/
概要を新聞記事(日経新聞⒑月31日)に書かせていただいた。
内外教育に載った紹介記事は、下記。








