居着かず、変化することに関して

最近の内田樹のブログに次のような文章があった。<「居着く」というのは、人間として成長することも変化することもなくなるということです。自分自身に釘付けになることです。/「勝ちに居着く」ということもあるのです。勝つとそれが成功体験になる。人は成功体験を手離すことができません。「勝ったせいで成長が止まる」ということがあるんです。/これが落とし穴なんです。だって、生命の本質は変化することだからです。変化を止めた人は生物学的には生きていても、人間的には死んでいる。/ですから、僕は「アイデンティティー」という言葉には強い警戒心を持っているのです。「ほんとうの自分を見つける」とかいう時の「自分」ていったい何なのでしょうか? そんなものを見つけてどうするつもりなんでしょう。/ 仏教の用語では「自分にこだわる」ことを「我執」と言います。仏道修行とは「我執を去って解脱を遂げること」です。武道修行も「我執を去って自在を得る」ことをめざしています。>(http://blog.tatsuru.com/2025/10/28_1001.html、『反知性主義者の肖像』文庫版あとがき)

上記とは全く関係ないことのように思えるが、生成AIに質問してその回答を読みながら、同じことを感じた。生成AIに質問すると、こちらの質問内容に合わせた回答を寄せてくる。こちらが陳腐な質問をすると、それに合わせた陳腐な回答を返してくる。こちらが新しいこと少し思いついてそれを含めて質問すると、それに合わせた新味のある回答を寄せてくる。つまり、こちらが変わると、生成AIの回答も変わる。

このことは、人についても言えて、自分と他者との関係についても言えるのではないか。自分が変わると他者の自分に対する行為も変わってくるように思う。自分の方で相手との過去の関係にこだわらず接すると、他者もそれに応じた態度で接してくる。このように、人間関係も互いの変化(成長)が大切である。(ただ、高齢者の場合、変化や成長はなかなか難しく、別の視点からの考察が必要かもしれないが)