竹内洋先生の関西大学文学部100周年記念講演の記録を読む

関西大学・京都大学名誉教授の竹内洋先生より、関西大学での100周年記念シンポジウムの基調講演の記録「葦の髄からの『文学部』論」という興味深い論稿をお送りいただいた。 竹内洋先生は1942年生まれで、関西大学と京都大学で長年教鞭をとられ、多くの著書のある日本の代表的な教育社会学者の一人である。これまで私も先生の著作から多くを学ばせていただいた。その高名な竹内洋先生からわざわざ抜刷をお送りいただき感謝に絶えない。同世代の研究者がまだ研究を続けている姿は大変な励ましになる。

竹内洋先生は、東京生まれということであるが、出身高校は新潟県立佐渡高校、大学は京都大学で、私にとっては憧れる経歴である。私は生まれたのは母の実家のある佐渡で、6カ月の頃から千葉に暮らし、中学、高校、大学は東京に通いで、勤務したのは東京の私大(武蔵、上智)であるが、親戚の多い関西の学問や文化人(作田啓一や多田道太郎等)にはあこがれを感じてきた。竹内先生からは、「私は(京大の)教養(学部)で、作田先生の社会学を聴講して、社会学っておもしろい学問だとおもったのが教育社会学に進学したきっかけとなりました」と伺ったことがある。先生が日本教育社会学会の会長の時、私は上智大学で学会の大会を引き受けた。このような昔のこともいろいろ思い出した。

竹内洋先生の講演の中身は、関西大学文学部の詳細な歴史と意義がよくわかる内容で、興味深い事柄が多くあった。個人的に印象に残った2つの点を挙げておきたい。その一つは、大学の夜間部の意義や役割で、高等教育の歴史の中で、大きな存在だったということを再認識した。関西大学も昭和の初期の頃は、学生は大学部、大学予科、専門部の3種に分かれ、それぞれの人数は、377人、879人、2156人と夜間部の専門部の学生が一番多く、この人たちが日本の近代化を担った中間リーダーになったとのこと。それは高等教育が実学との関りが大きかったことも意味する。もう一つはそれと関係するが、関西大学文学部では「学の実化」ということが重んじられたということ。大学の学問(知)と社会の現場との相互学習(「学理と実際の調和」)が、とても大切ということである。

 大学夜間部の歴史と意義に関して、例によって、生成AIにも質問して、その分野の私の無知を補った(添付参照)。