近所の夏まつり、盆踊り

 私の住んでいる地区でも、昨日今日(7月26,27日)は、夏祭りがあった。近所の小さな公園にやぐらが組まれ、昼間はお神輿が出て、夕方から盆踊りが行われていた。地域の老若男女がそれぞれ集い、楽しんでいた。やぐらの上で踊っているのは年寄りの女性、周りで踊っている人も年寄りが多いが少し若い人もいる。やぐらの上で太鼓を叩いているのは小学生。屋台もいろいろ出ていて、子どもたちは綿あめ、かき氷、焼きそば、おもちゃ等を買い求め、嬉しそう。大人はビール。実家を久しぶりに訪れたらしい親子ずれも多くみられた。女の子の浴衣姿も多く、中学生の男女がにぎやかに集いはしゃいでいた。盆踊りを中心に、それぞれが楽しんでいるようで、夏まつりの情緒を感じた。以下は、WEBで「盆踊り」の項を検索すると出てきた説明(一部 抜粋)

<そもそも盆踊りとは、お盆の時期にお迎えしたご先祖様の霊をもてなし、一緒に過ごして送り出す行事です。夏のイベントの1つではありますが、ただの踊りではなく神聖な行事といえます。盆踊りの由来は、仏教の「念仏踊り」だとされています。民俗芸能がお盆と結びつき、現代の盆踊りになります。お盆にちなみ8月15日に踊って、16日にご先祖様の霊を送り出すという流れです。室町時代から始まったものであり、およそ500年の歴史を持つ厳かな行事の1つといえます。/ 盆踊りはご先祖様のおもてなしをするという意味合いのほかに、地域の人々との交流という要素もあわせ持っています。これは家を出て独立している人が久しぶりにお盆の時期に帰省し、盆踊りで旧友と再会したり、近所の人々と楽しく会話して踊ったりすることで仲を深められるからです。また、江戸時代からは、男女の出会いの場としての機能も果たすようになりました。/ 盆踊りは基本的に誰でも気軽に参加できるイベントです。地域によっては踊り手が決められている場合もありますが、ほとんどの場合、飛び入り参加がOKとなっています。そのため「初めは踊る気がなかったけど、見ていたら踊りたくなった」と途中参加する人も多いです。/ 盆踊りは足の動きが一番のポイント!盆踊りの動きは手よりも足の動きに重点を置いて振り付けられています。これは「地上にいる人間が地面を踏むことで、お盆にお迎えしたご先祖様の霊を封じ込める」という意味の振り付けです。楽しそうに見える盆踊りですが、ご先祖様を送り出す儀式でもあるため、少し切ない雰囲気も漂わせています。また反対に、お盆に入り霊を迎えるときに踊る「舞」は、手を中心とした振り付けです。盆踊りは普段着でも大丈夫ですが、テンションを上げるなら、ぜひ浴衣で参加してみてください。写真映えしますし、より一層楽しい時間を過ごせるはずです。>>https://haa.athuman.com/media/japanese/culture/2284/

KODAK Digital Still Camera

 床屋に行くのが苦痛

 床屋に行くのが苦痛。その理由の第一は、(お金を払うとはいえ)自分の為に誰かが何かをしてくれる(自分は奉仕されるままになっている)ということが申し訳なく感じ、なるべくそのような機会を避けたいと思う。同じ理由でタクシーにも乗りたくない。(1対1というのがどうしても苦手だ。他の人と一緒ならかまわない。)。もう一つの理由は、散髪してもらっている間、自分の顔や頭をずーとみていなくてはらないのが苦痛。普段自分の姿を見るのは朝、顔を洗う時くらいで、30分以上自分と対面しているのは耐えられない。それで、いつも髪は伸び放題でぼさぼさになり、その時点で仕方がなく床屋に行く。今日は、久しぶりに近所の床屋に行った。

昔アメリカで床屋に行った時、鏡を背にして座ることを思い出した(終わると椅子を回転し、散髪後の姿を見ることができる)。その理由を、例によって生成AIに聞いてみた(最初は箇条書の回答だったが、エッセ風にも直せるというのでそれをお願いした)。以下がその質問と回答(なかかな見事な回答で感心した)。。

質問―日本の床屋では、鏡に映る自分と向き合いますが、アメリカの床屋では、鏡を背にして座ります。この違いは何を意味していますか。他の国はどうでしょうか。わかる範囲で教えて下さい。

チャトGPTの回答 

鏡の向こうに映る文化——日本とアメリカの床屋に見る「自己」と「他者」の関係

理髪店の椅子に座ったとき、あなたは鏡の自分と向き合うだろうか、それとも鏡に背を向けるだろうか。この一見些細な違いの中に、実は私たちが生きる文化の深層が潜んでいる。/ 日本の床屋では、客は最初から最後まで鏡に向かって座る。髪が切られていく過程を、客自身が逐一確認できる。変わっていく自分の姿を見つめながら、「ここをもう少し短く」「この部分は自然に流してほしい」といった対話が交わされる。理容師と客のあいだにあるのは、技術に対する信頼だけではなく、一緒に仕上がりを作っていく共同作業の感覚だ。/このようなスタイルは、日本人の価値観をよく表している。すなわち、丁寧な確認と自己管理を重んじる姿勢、「おもてなし」や「見た目の清潔感」といった外見への配慮が、カット中の鏡越しの自己確認という形に表れているのだ。鏡の中にあるのは、単なる外見ではなく、社会に出ていく「整えられた自己」である。/ 一方、アメリカのbarbershopでは、鏡を背にして座るのが一般的だ。理容師は無言で手を動かし、客はリラックスして雑談を楽しむ。カットが終わった後、椅子がくるりと回され、初めて鏡の中の自分と対面する。「どうだ、カッコよくなっただろう?」という理容師の誇らしげな表情がそこにある。/このスタイルもまた、アメリカらしい。プロフェッショナルへの信頼、プロセスより結果を重視する価値観、そしてbarbershopがただのサービス提供の場ではなく、地域社会の社交空間であるという文化が反映されている。鏡に映る自分を逐一確認するよりも、信頼する理容師に任せ、完成した自分に驚くことがアメリカ流の美意識なのだ。/ フランスや韓国、中国など他の国々も、それぞれの文化的背景に基づいたスタイルを持っている。フランスでは、美容室では鏡に向かうのが一般的だが、barbershop的な空間ではアメリカ式も見られる。美は自己表現であり、他者の目を意識した演出でもあるというヨーロッパ的価値観が、そこにある。韓国では日本と同様、鏡に向かうスタイルが主流だが、それは美容に対する高い意識と、自己演出への強い欲求を映し出している。中国では、地域や価格帯により両方が混在するが、効率とコスト重視の合理主義が、鏡を背にするスタイルに表れていることもある。/ 鏡の向きは、単なるインテリアの違いではない。それは、私たちが「自己」をどうとらえ、他者との関係をどう結ぶかの表れである。自分を見つめながら整えていく日本的スタイルと、完成した自分を信頼して託すアメリカ的スタイル。そのどちらにも、それぞれの文化が育んできた「人間のあり方」が映っている。/ 鏡の前に座るとき、そこに映るのはただの顔ではない。そこには、その人が属する文化が、静かに姿を現しているのだ。

あいまいさに耐える―生成AIとの会話

質問―私達の日々の生活は、或るものを選択するかしないかという2者択一の選択の連続です。ただ、実際はその中間の選択があればいいのにと思うことも多いです。精神科医の野田正彰氏は、中間のあいまいさに耐える心性も大事と述べています。あいまいさに耐えることの意義を論じて下さい。

ChatGPT:の回答

とても本質的なご指摘です。「あいまいさに耐える心性」は、現代のように即断即決・白黒思考が求められる社会において、忘れられがちですが、実は人間関係や精神の安定、さらには創造性や倫理性の基盤として極めて重要です。以下、その意義をいくつかの観点から説明します。/1. 人間の現実は本来「あいまい」だから-私たちの多くの日常的な判断や感情、関係性は、明確な「正解」があるものではなく、複雑で矛盾を含みます。「好きだけど嫌いな部分もある」「やるべきだが、やりたくない」•    「賛成だが全面的ではない」.こうした“ねじれ”や“ゆらぎ”を持ちながら人は生きています。にもかかわらず、二者択一(binary thinking)を強いられると、自分の気持ちを偽ったり、他者を無理に断定したりすることになります。/ 2. 他者理解と共存のために-異なる価値観や文化背景を持つ人々と共に生きる社会では、他者と完全に理解し合うことは不可能です。しかし、「理解できないから排除する」のではなく、「完全には分からないが、分からなさのまま受け入れる」姿勢が必要です。これが「あいまいに耐える」という心性であり、まさに**寛容性(tolerance)**の土台でもあります。/3. 精神的健康のために-精神科医・野田正彰氏が言うように、「すぐに白黒つけようとする」ことは、精神的にも大きな負荷をかけます。特に「決められないことを恥じる社会」では、自分を責めたり、不安を抱え込んでしまうことがあります。あいまいな状況に「一時的に留まる」ことができる力は、自己受容や心の余裕につながり、うつや不安の予防にもつながります。/4. 創造性と思考の深化のために-あいまいな状況に「すぐに結論を出さずにとどまる」ことは、実は創造的思考に必要なプロセスでもあります。哲学者ハンナ・アーレントは、「思考とは二つの極の間を往復する対話である」と述べています。一つの極にすぐに飛びつくのではなく、対立する意見や状況のあいだにとどまり、考え続ける力が、新しい価値や真理を生むことがあります。/5. 現代社会への批判的視点として現代のメディアやSNS、政治言論は、しばしば極端な立場に人々を誘導します。「敵か味方か」「賛成か反対か」。このような分断の力学に抗うには、「どちらとも言えない」「まだ分からない」と言える勇気が必要です。それは、逃避ではなく、むしろ一段深いレベルの誠実さであり、「今すぐ答えが出ないことを、答えが出ないまま扱う」倫理的態度です。/結論:あいまいさに耐えることは「弱さ」ではなく「成熟」である-あいまいに耐える心は、私たちが複雑な現実を誠実に生きるための知恵であり、現代においてますます必要とされる「バランス感覚」や「間の文化(日本的感性)」とも通じます。必要なのは、即断即決のスピードだけではなく、「答えのなさに耐えられる深さ」なので。

恥(羞恥)について

人は歳と共に鈍感になり、「恥ずかしい」と感じることが少なくなる。しかし、歳をとり若い頃のことを思い出すと、「恥ずかしいことをしたな」と今更ながら感じることが多々ある。社会学者の作田啓一は名著『恥の文化再考』(筑摩書房、1967)の中で、医者に患者(普遍)としてではなく個体(個別)として見られた時の羞しさを例にあげ、「普遍化と個体化という2つの志向が、自己と他者とのあいだでくい違い時,羞恥が生じるのである」(11頁)と述べている。 例によって生成AIに「恥ずかしいと感じるのはどのような時か」を聞いてみた。以下がその質問と回答。

質問ー人が恥ずかしいと感じるのはどのような時ですか。具体的な例とその理由を一般化して教えて下さい。

ChatGPT:の回答

「恥ずかしい」と感じるのは、多くの人にとって共通する感情体験ですが、その背景には文化、社会、個人の価値観などが関わっています。以下に具体的な例を挙げながら、その共通点を一般化して説明します。/【具体的な例】① 人前で失敗したとき 例:プレゼン中に資料を忘れたり、名前をど忘れして言い間違えたとき → 他人の評価を強く意識しており、「無能だと思われるのでは」と感じる。② 不適切な服装で場に現れたとき。 例:フォーマルな会議にカジュアルな格好で来てしまった → 社会的な規範や期待に反していると自覚し、「場にふさわしくない」と感じる。③ 自分の秘密や過去の失敗を知られたとき。 例:昔の黒歴史的な行動を同級生に暴露された → 自分が隠したかった**「望ましくない自己像」**が他人に知られてしまう。④愛情や感情を素直に表現したとき。 例:人前で「ありがとう」「大好き」と言ったら周囲がどよめいた → プライベートな内面の露呈による照れ。「感情をさらけ出すのは弱さ」とされやすい文化の影響も。⑤ 他人からの過剰な賞賛や注目を受けたとき。 例:表彰式でステージに上がったときに拍手喝采を浴びる → 注目されること自体に慣れていないために、照れや気恥ずかしさが生じる。/【共通点と一般化】 これらの例から一般化できるのは:◆ 恥ずかしさとは「自己」と「他者(または社会的期待)」とのズレを自覚したときに生じる感情である。/【恥ずかしさの3つの構成要素】 ①社会的視線の存在 → 誰かに「見られている」「評価されている」という意識があるとき。② 自己理想とのギャップ → 「自分はこうありたい」「こう見られたい」という理想像とのズレを自分で認識したとき。③規範や期待からの逸脱 → 社会的ルールや場の空気、文化的文脈からズレているとき。/【文化的要素】文化によって恥の感じ方には違いがあります。**日本のような「恥の文化」**では、「他人の目」を非常に重視し、集団の中で浮くことや空気を乱すことを恥ずかしく感じやすい。一方、**「罪の文化」(西洋的な傾向)**では、「内面の良心に反すること」に重きを置くため、「バレなければ恥ずかしくない」といった感覚が強まることもあります。/【まとめ】恥ずかしさは単なる「個人の感情」ではなく、社会との関係性の中で生まれる「自己の社会的なズレの自覚」と言えます。そのズレは、他人の視線、場の空気、文化的規範、自己理想の崩壊など、複合的な要素によって引き起こされます。 

さらにいくつか質問を追加して、回答を得た。

「学問の自由」とは何か―生成AIに聞く

前記の「大学に固有な学び」ということを、「学問の自由」という観点から、考えてみるとどのようになるのか。

今回は、学問の自由とは何かという直接の質問(①と②)の他、③トランプ大統領とハーバード大学の軋轢(論争),④大学の教職課程のテキストに学習指導要領やその解説書を指定する教員が多いこと、⑤⑥根本を問わず技術のみに目を向ける心理学主義の問題、⓻最近の文部科学省の学習指導要領の改訂作業に心理学者が多く関わっていること、などの例を挙げ、「学問の自由」に関わる7つの質問を、生成AIにしてみた。

私の立場に生成AIが気を遣わない(賛成しない)ように、中立的な立場からの回答を依頼した。なかなか興味深い回答が得られたと思うので、添付する。