NHKの「朝ドラ」

NHKの朝ドラが好きで、いつも見ている。今回も堀北真希 というきれいな女優さんが主役で、毎日さわやかな気分で一日がはじまる。ただ、今回はまだ始まったばかりなのか、前回の「カーネーション」のような躍動感が感じられないのが少し残念。

というよりは、前回の「カーネーション」が特別だったのかもしれない。
配役や監督もよかったのであろうが、「渡辺あや」という脚本家が素晴らしかったのであろう。 4月4日の朝日新聞で紹介された氏の言葉が印象に残った。

< やろうとしたことは、溶かす、ということです><大人になるにつれ、心の中に何重にも薄い殻が重なって、本当の自分の心が分からなくなる。物語ならが、普段だったら手が届かない殻の奥にある、柔らかいところを温めて溶かしてあげられる>
<自分と登場人物に間で起きた純度の高い振動が、役者の肉体を通じて他の人々にも広がっていく。私自身、それですごく解放されるし、見る人も自意識に閉じ込められていた感情を一緒に解放できればいい、そう願っています>

千葉のお花見

 今日(4月8日)は、天気も良く風もなく、絶好のお花見日和娘たちがお弁当を作り、2匹のキャバリアを車に乗せ、家族全員で、桜を求めて、千葉を南下。 千葉は少し郊外に出ると田舎の風景で、大きな公園も多い。
 最初に、土気にある「昭和の森公園」に行き、桜と外房の海を見ながら、お弁当を広ろげる。 それから、「泉自然公園」に行き、桜とカタクリの花を観賞。平和な一日であった。

放送大学入学者の集い

入学式と桜ののシーズンである。私が客員教授として勤めている放送大学文京学習センターでも、桜満開の中、4月7日(土)に、入学者の集いが開かれ、我々客員も短いスピーチをした。
文京学習センターは、昨年10月に改築になり、木目の床に、木でできたキリンの像まであり、外の桜もきれい。

定年後の生活

ひとりの知人は、定年後の生活に関して、次のように書いている。

<人の「一生」は短いものです。そんなことを考えると、今までの生活とは全く違う形の生活を想い描いてみたりします。いわゆる仕事からは全て身を引き、「街を歩き、いろいろ自然の中へ出かけ、本を読み、思索に耽り、また家事をこなし・・・」、そんな方が人間的なのではないかと。 仕事は確かにいろいろ魅力を持っています。自己実現、自己表出の機会であり、自分が社会に必要とされていると感じられることは、人間にとってとても大きなことなのでしょう。ただ、「仕事は人生の最良の糧であり、同時に麻薬なのかも知れない・・・」、などと考えたりもするのです。>

 上記の意見に、私は3分の1くらいは共感し、3分の2くらいは違うのではないかと思います。(共感部分はここでは省略して)
 第1に、定年後そのような優雅な生活を送る為には、貯えがなければ無理でしょう。今の年金額はだけでは、そのような好きなことをすることも好きなところに出かけることもできません。裕福な人の定年後の生活をすべての人にすすめることはできません。
 第2に、人はだいたい怠け者で、義務がなくなると、ずぼらな生活を送ってしまいます。 毎日が日曜日になると、読書や思索や運動をしようとしなくなるのではないかと思います。(少なくても私はそうです)。「~への自由」ではなく「~からの自由」というのが、人間の性(さが)なので、ある程度の、義務(仕事)が必要で、そこから自由になろうとしてこそ、楽しさがあるのではないでしょうか。

思想的な死(?)

以前の朝日新聞(3月27日夕刊)であるが、カン・サンジュン東大教授が、「吉本隆明を悼む -大衆に寄り添うゆえの変貌、丸山よりも『近代主義者』」という文章を寄せている。
 「大衆の『欲望自然主義』を無邪気に肯定する吉本」は、「大衆の実感に寄り添う吉本が辿らざるを得なかった必然で」「空前の原発事故を目撃しても、科学によって科学の限界を超えられると嘯いた吉本」は、「教祖の思想的命脈は尽きていたのである」と、書いている。
 上記の文章は、吉本隆明が、芥川の自殺に関して、それは人間的な死ではなく文学的な死である、と述べていることを、なぞっているように思えた。
 「芥川龍之介の死は、『歯車』や『阿呆末の一生』のあとに、どのような作品も想像することができないように、純然たる文学的な、また文学作品的な死であって、人間的、現実的な死ではなかった」(吉本隆明「芥川竜之介の死」『著作集7』昭和43年)
 つまり、吉本の死は、人間的な死ではなく思想的な死である、と。
こんなに厳しく言わなくても、藤原新也の紹介するインドの僧のように、自分を踏み越えて進むように「教祖」吉本から吉本「信徒」を解放させたのではないかと考えたい。