照明について (藤原新也CATWALK 6月13日からの転載)

私はかねがね、身近な若い人たちにデートする時には照明を選びなさいと忠告している。
屋内でデートなどをする場合(人と会う場合でもよいのだが)自分たちが照らされる照明に気を使うというような心遣いをする人は日本人の場合ほとんどいないからだ。
レストランやカフェなどで異性と向かい合う場合、照明を選ぶことで場の雰囲気が一変し、互いの表情が豊かに、そして肌色などもきれいに見えたり、その逆に妙に殺伐として見えたりするものなのだ。
それはカメラマンが女性を撮る場合、きれいに撮るために照明に気を使うのとまったく同じことだ。
それは屋外であっても同じことで、例えばフォトロゴスにアップした大島優子の湖畔の彼女がきれいに見えるのは空に薄雲がかかり、太陽という照明が適度にディフユーズされているからである。
つまり自分が女性である場合はこの照明の選びは必須事項と考えていただきたい。
ところが日本ではよほど高級レストランでもない限り、この照明に気を使わない。
西欧では、これは伝統だろうが、レストランやカフェの照明には非常に神経が行き届いている。
だがなぜか日本の照明環境はきわめて無神経。
日本に照明に関する伝統がないというわけではなく、障子から射して来る柔らかい光や行灯の妖艶な光など、かつてはさまざまな光源の工夫が見られたわけだが、戦後にこの伝統が無茶苦茶になった。
コンビニの真昼のように明るく陰影がなければいいという感性がいつのころからか出来てしまっているように思うのだ。
写真を撮る側から言うと人の肌や表情がふくよかに見えるのは基本的には”火”だ。
その火とはロウソクの火であってもよいし、フィラメントが燃える白熱灯の火であってもよいわけだ。
陰影の妙を醸し出すワット数の低い白熱灯を使い、しかもそれを壁や天井にバウンズさせたり、光源の前に光を柔らかくするディフユーズをかけたりするなど工夫を凝らした間接照明が人をきれいに見せるわけだ。
したがってデートなどをする場合、あらかじめそのレストランやカフェの照明を下見などをし、恋人と向かい合いなさいと忠告しているわけだ(笑)。
さらに言えば、それが白熱灯であっても頭上に光源がある場合、直下だと顔の皺や隈などがはっきりと浮き彫りになってしまうので少し体を移動して程よい光の射程に入ること。
笑い話ではないが、その恋が成就するかどうかの一役であり、大切なことなのである。
まかり間違っても蛍光灯などが燦然と輝く場所でデートなどをしないこと。
互いが死体のように見えてしまう。

中国の学生の優秀性と教育の卓越性

今回のセミナーに参加して感心したことの一つに、中国の学生の優秀さがある。
一つの部会の発表は、中国の院生と学生によってなされていた。そこでは、しっかりした日本語で、かなり高度な内容の報告がなされていた。 その発表テーマは、次のようなものである。

「推理と恐怖美―谷崎潤一郎の『途上』を中心に」
「自然の鎮魂曲―深沢七郎の「笛吹川」のテキスト分析」
「日本近代文学における『ハムレット』の受容―太宰治の『新ハムレット』を中心にー」
「日本近代文学における変身物語―動物変身を中心に」
「額田王の生身の実態について」

 中国の学生が、今の日本の大学生や院生が読んでいないような日本の小説、文学を読みこなし、それに論理的、感覚的な考察を加えているのは、驚きであった。
 そのような洗練された分析が、中国の学生によって、しかも日本に行ったことのない学生が、中国の大学の日本語教育だけで出来てしまうというのには、心底感心した。
 このような高度な考察が出来るのは、中国の学生の優秀性と教育の卓越性の他に、中国と日本の文化の共通性(中国文化の日本への影響)が、底流としてあることも感じた。欧米の学生では、ここまで日本文学への理解は進まないであろう。 中国の学生が日本語や日本の文学や日本文化を学ぶ意義を感じた。

中国の大学・学生の風景

中国の大学の学生達の様子を知りたくて、セミナーを途中に抜け出して、大学構内を歩き回った。
4万人の学生が通うという同済大学の構内はかなり広い。川や池のある庭園もあるが、全体にはそっけない構内である。一昔前の日本の国立大学といった感じである。端の方には学生寮もたくさんあり(1部屋に4~5人とのことであった)、窓の外には洗濯物が干してあって、美観を損ねていた(昔の東大の駒場寮のような佇まい)。
学生の食堂は、雑然としていて、混雑していて、日本の私立大学の食堂のように小奇麗というわけではない。
学生の服装はカジュアルで、女子学生に化粧気がなく、真面目な、日本の理系の学生という雰囲気であった。
これは、同済大学が日本の東工大と一橋を合わせたエリート校の位置にあるせいなのか、それとも、中国の大学には共通の佇まいなのか、今回は同済大学しか見なかったからわからない。

上海にいく

この週末(6月8日ー10日)は、上海の同済大学で開催された「2012年日本語教育と日本学研究・国際シンポジウム」に参加してきました。
「これから日本語教育に求められるもの」というパネルディスカッションのパネラのひとりを頼まれたため。
加藤幸次先生(上智大学名誉教授)の基調講演を、聞くのも目的の一つ。
そこでの様子は、追々報告する。