花や緑に目がいく

昨日(20日)は、神田外語大学(幕張)→敬愛大学(稲毛)と千葉市内の移動。神田外語大学では、キャンパスで咲き誇っていた桜の花は終わり、学生も室内へ。
敬愛へ行く途中の放医研の八重桜が満開。敬愛大学の正門脇の菜の花も満開。敬愛の講師室にはメダカと藻がいっぱいの水槽。私の研究室にも緑を置いている。
植物に目がいく日々―歳のせいか?

ブログへのコメント

このブログを見てくれた「公益財団法人中央教育研究所」の水沼文平さんより、下記の素敵なコメントをいただいた。転載させていただき、御礼を申し上げる。

先生と岡崎さんの写真、よく撮れてますね。
友だちとはいいものです。
今の世、いくら平和に見えても「一寸先は闇」、その通りです。
京都市の繁華街で暴走した車が交差点に突っ込み、通行人18人がはねられ、男女7人と運転手が死亡したという事故がありました。
死亡した県外者は多分観光客、誰がこんな事故に遭うなんて考えていたでしょう。
葉隠の「武士とは死ぬことと見つけたり」、自己流に解釈すると「人の命には限りがある。事故や病気でいつ死ぬかもしれない。
だから何時死んでもいいという覚悟で、この一瞬一瞬を大事に生きる」ということになりますが、これがね、なかなか難しいことです。
やはり死ぬのは怖い、嫌だ、という気持が先行します。
そんな時、強烈に味方となってくれる至言があります。
それは、
「今生きている人間は100年経てばみんな死んでいる」という言葉です。(水沼文平)

了解を取っていないので、お名前を出せないが、高名な教育学の先生からも下記のコメントもいただいている。拙いブログを読んでいただき、恐縮している。

武内先生のブログ、読ませていただきました。特に「教育とは」は、逆説的で面白いですね。もし何かを注入して、日本が再興するのなら、「そんな簡単な方略はない」と思います。創造性のないところに、国の再興も、民族の再生も、そして、今日でいえば、地球の救済もないと思います。
「定年後の過ごし方」、放送大学で学ぶ教育関係者の意気込みに「希望」を託したいと思います。
 ところで、先週、何げなく放送大学のチャンネルを見ていたら、大学紹介で、武内先生と先生の授業風景が出ていました。

平和な東京

今日JRと地下鉄合わせて8つ駅を乗り降りした。東京はそれだけ鉄道網が張り巡らされていて便利ということであろう。
十条駅の近くでは、友人の岡崎友典氏と一緒に昼食を食べ、統合された区立の中学校を見学に行こうと約束した。原宿は、平日なのに賑やか。修学旅行生もたくさん見た。赤坂はまだ桜がきれい。テレビ局(TBS)の周辺は、やはり華やいだ雰囲気。東京は平和だ。
でも、首都圏を襲う地震の「予知」のニュースを聞くまでもなく、3・11以降、皆「一瞬先は闇」という不安感を抱いての日々のような気がする。

家族で聴く音楽

子どもが小さい頃は、親が聴く音楽や絵を見て、それが好きになり、親子で聴いたり見たりしたりすることが多いであろう。
もっともそれ以前に、夫婦で聴く音楽や絵に一致はあるのかどうかは微妙なところである。私は結婚以前はフォーク(吉田拓郎、井上揚水など)やロック(ピンク・フロイドなど)を聴き、妻はクラシックと、聴く音楽は違っていた。夫婦の力関係から(?)、私は段々フォークやロックは聴かなくなっていった。
うちの娘達は、他の子ども達と同様、小さい時からヤマハに通い、途中から個人レッスンでピアノを習い(それが好きだったかどうかは疑問、義務のように練習をさせられていた)、その弾いている曲などが、CDで流れていた。クラシックの音楽会に家族で行ったこともある。その後、娘達が、どのような曲を聴くようになったのかは、よくわからない。(ウォーマンやアイ・ポットの普及で音楽の視聴は個人化していった)
それでも、最近は、家族が、ユー・チューブで聴いている曲が、茶の間に流れ、それを皆で聴くことがある。今、よく家族が聴いている曲は、下記(奄美大島の曲)
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=u6FM1E_rxEg#!

教職のための教育社会学講義

神田外語大学で、「教育社会学」の授業を担当することになり、4月13日に第1回の授業があった。最初から教室探しに迷い、遅刻して開始。
受講届け前にも関わらず、50名弱の学生が熱心に私の話を聞いてくれた。つい、「教育社会学とは」という内容を熱心に講義した。ふと学生の顔を見ると、少し退屈そう。
ここの学生は語学(主に英米)が専門で、教職の為にこの授業の受講を考えているのであり、別に「教育社会学」の学問的性格など関心がないことに、遅ればせながら気が付いた。
上智大学教育学科で「教育社会学」を講義したときは、その学問的性格を論じ、それは「教師の為の教育社会学」(Educational Sociology)とは違う、科学的な「教育の社会学」(Sociology of Education)だと言って、澄ましていればよかったが、ここではそれは通用しない。
教員養成大学でどのように「教育社会学」を教えたらよいかということが、よく学会で議論されていることを思い出し、はじめて自分に突きつけられたことを知った。