思想的な死(?)

以前の朝日新聞(3月27日夕刊)であるが、カン・サンジュン東大教授が、「吉本隆明を悼む -大衆に寄り添うゆえの変貌、丸山よりも『近代主義者』」という文章を寄せている。
 「大衆の『欲望自然主義』を無邪気に肯定する吉本」は、「大衆の実感に寄り添う吉本が辿らざるを得なかった必然で」「空前の原発事故を目撃しても、科学によって科学の限界を超えられると嘯いた吉本」は、「教祖の思想的命脈は尽きていたのである」と、書いている。
 上記の文章は、吉本隆明が、芥川の自殺に関して、それは人間的な死ではなく文学的な死である、と述べていることを、なぞっているように思えた。
 「芥川龍之介の死は、『歯車』や『阿呆末の一生』のあとに、どのような作品も想像することができないように、純然たる文学的な、また文学作品的な死であって、人間的、現実的な死ではなかった」(吉本隆明「芥川竜之介の死」『著作集7』昭和43年)
 つまり、吉本の死は、人間的な死ではなく思想的な死である、と。
こんなに厳しく言わなくても、藤原新也の紹介するインドの僧のように、自分を踏み越えて進むように「教祖」吉本から吉本「信徒」を解放させたのではないかと考えたい。

神田外語大学

昨日、海浜幕張にある「神田外語大学」をはじめて訪れた。4月から非常勤で「教育社会学」の講義を担当するので、その非常勤講師への説明会と懇親会が開かれたからである。
JR幕張駅からは徒歩20分と少し遠かったが、キャンパスは広く芝生がきれいであった。ICUのキャンパスを思わせられた。キャンパスの後方には幕張メッセの高層ビルがそびえ立ち、千葉とは思えない(?)都会的なたたずまいである。
立食の懇親会は200名近くの人が集まっていたが、その3分の1近くは外国人(西洋人)で、国際的な大学であることを思わされた。学生に会うのは来週からで、どんな学生なのか少し楽しみ。
 ホームページは http://www.kandagaigo.ac.jp/kuis/

大学教員苦難の時代(?)

これはある非常勤の先生が言っていたことであるが、こんなことがあるのか?
 ある大学で、学生の受講態度を注意したら、その学生が怒って、受講者全員にその先生の授業評価で最低点を付けるように呼びかけ、それが実行され、その評価を見た教員は、ショックで自殺してしまったという。
 「学生に対する注意の仕方を考えなくてはならない時代になった」というのが、その先生のコメントであった。それに対して、ひとりの先生は、「学生も息抜きの時間が必要で、自分の授業では私語をしない限りどのようなことをしても許容している」とのことであった。 大学教員も大変な時代になっている。

大学生とのやり取り

知り合いの大学生から次のような、今の日本の大学教育と大学教師への疑問のメールが届いた。外国の大学を見て来て、日本の大学とその教員の様子に疑問と義憤を持ったようだ。その遠慮のないいい方に、若さを感じた。そのやり取りの一部を紹介する。
 Aさん(国立大学4年生)からのメール
<ただ今、秋入学の議論が出ていますが、なぜ教育内容の議論をしないのでしょうか。秋入学の時期の議論とその期間の活用法に終始するだけで、今までの大学教育の内容を見直さないのはなぜでしょうか。
(日本に)留学したい学生は、(日本の)大学に魅力を感じれば留学すると思います。 私はB国出身の先生や日本人院生とお話しする機会がありましたので、日本の大学について聞いてみました 。簡単にいえば、(日本の大学に)「魅力がない」とのことです 。
日本の研究レベルは一定数あるが、教育レベルが低く、学生の力がつかないとのことでした。英米圏の大学では、教育の充実に力を注ぎ、卒業後に学生がその力を活用して就職できるようにするそうです。こちらの先生はどんな小さな質問にも答えてくれます。それはB国の場合ですが、大学教育の評価は教育の比重が強く、シラバスに従わず学生の結果が出なければその教育費の全額を国に返還しなければならないからです。
高額な授業料と住居費を学生に支払わせて、自らの研究にのみ集中し、講義はおまけスタンスの大学教員さんのお考えが分かりかねます。大学教員の著書をみますと、大学擁護と学生批判がよく出てきますが、彼らの矛盾に疑問を思います。勿論、学ぶのは学生次第です。しかし、(今の)大学生の多くが、今までの大学のスタンスに適応できるとは思えません。
日本は技術で生きる国ですから、研究の充実は絶対に必要です。しかし、大学側は「学生」という存在を考慮しているとは思えません。日本人として日本の向上を考えれば、次世代を担う学生の教育に終始してもいいと思います。研究だけではなく教育の充実も同様に国の繁栄に繋がると思います。
なぜ大学教員方が、留学を推奨する大学側が秋入学の時期とその空白期間だけを議論しているのかが分りかねています。

私の返事
<メール、ありがとうございました。日本の大学教育システムに関するご意見、疑問の文章、ありがとうございました。
上智大学に私がいた時でも、アメリカやヨーロッパの大学に留学した学生が、いかに海外の大学の教育が素晴らしくいかという学生が多くいました(武内清編『キャンパスライフの今』玉川大学出版部、2003、p19-20)。ただ、アメリカの大学の様子も、それほど理想的なわけではありません (私も1年、Wisconsin大学での見聞を書いたことがあります。「アメリカの教育事情―Madison (UW)での見聞、体験を中心に―」『上智大学教育学論集30号』)
 日本の高等教育のあり方に関する論議は、文部科学省のレベル(中教審や大学審議会答申)から各大学のレベルまで、いろいろあります。全体には、研究重視から教育重視の方向に移行し、大学の学校化、学生の生徒化が進んでいます。これが、いいことなのかどうか、議論のあるところです。
9月入学は、東大が言いだし、マスコミを取り上げましたが、それは1時的なもので、高等教育のあり方に関する重要な話題ではないと思います。
大学は高校までと違い、学生の自主性をいかに伸ばすかということが重要なことなので、大学教育が、またその内容がどのようにあるべきかは、難しく、大学教師が、研究時間を削り、教育に専念すればいいという問題ではありません。また、職業に役立つ専門学校のような大学に皆なればいいわけではありません。先日開かれた大学の学修支援のシンポで、いくつかの大学の先進的な取り組みを聞きましたが、それは一つの方法であり、すべての大学に応用できる方法ではないと思いました。個別の大学により、伝統や学生の質や、いろいろ違い、一筋縄では、いかないようです。>

年寄りの元気の源は?

80歳を超えておられると思われる東大名誉教授の水野 丈夫先生は、今でも被災地の小学校で授業を行い、子ども達がその内容に感激しているという。先生は最近白内障の手術を行いよく目が見えるようになったので、いろいろ本を読み、語学の勉強もはじめられたとのこと。
元同僚の加藤幸次先生(上智大学名誉教授)のお宅に電話をしたら、今韓国と中国を旅行中とのこと。
このような歳とってからの元気の源はどこから出てくるのだろうか?

写真家の藤原新也もやけに(?)元気。その源を次のように書いている。

<私は現在68歳だが、早熟な私は8歳の頃から人生を考えはじめ(いずれ自叙伝で書くことになるが)60年間考え続けているのだが、いまだに人生というものがわからないのである。というより昨今歳を重ねるごとに妙に元気が復活し、また元気になるごとに人生のさまざまな新しいことが降りかかり、未解決の問題が増える一方だ。それは生きる糧を与えられているということに他ならない。
ただそういう混乱の過程渦中の中で目の前に立ち現われたものに真摯に向かい合い、あきらめることなく考え続けることこそ、頭というものを持った人間の役割だと思っている >
(藤原新也 CATWALK,3月27日より転載)