「潔くしなさい」

「潔(いさぎよ)くしなさい」と、今の学生に言いたい
「授業に出て来たのなら、私語やケイタイいじりを止めて、こちらの話をきちんと聞きなさい。友だちと話したり、ケイタイをいじりたいのなら、授業を欠席しなさい。
 人間には潔さが大切です。一方を選んだのなら、他方を諦めるのがルールです。二股をかけるのは、一人前の大人のすることではありません。
 あなたたちは、大学生=大人なのですから」

鳥のエサ

秋も終わりになると、鳥の餌も少なくなる。我が家での庭の餌箱(もう年月が経ちぼろぼろだが)に、パン屋で貰ってきたパンの蔕(へた)(これをもらうのは少し恥ずかしい。でも飢えた鳥の為と言い聞かせて恥ずかしさを克服する)(左の写真参照)
(それを細かくして)などを入れて置く。すると雀がよく来て食べる(時にカラスが来る)。みかんを置いておくとメジロが来る。
ソフィーもパンが大好きで、「私にもチョウーダイ」目線で訴えてくるが、既に体重オーバー(適正体重6キロのところ8キロ以上ある)ので、あまりあげられない。

授業の中での個人情報

個人情報の時代、大学で授業をやっていて、学生の個人情報の扱いに苦慮することが増えている。他の先生達はどのようにしているのであろうか?
何かのテーマで講義をする時、学生に自分の身近な問題としても考えて、そのテーマに関心を持ってほしいと思うので、学生にそのテーマに関連してのことを聞くことがある。
たとえば、「これまでいじめられた経験はありますか」「小中高のどの時代が一番楽しかったですか」「あなたの大切にしている価値は何ですか」「好きな歌手やグループはいますか。そこの歌詞では、どのような価値が歌われていますか」など。
上記のような質問や「これこれの考えの人、手を挙げて下さい」というような発問を、講義中にしていいものかどうか迷う。
それらは、個人情報で、人に知られたくないと思っている学生もいるかもしれない。つまり小学校時代はいじめられ暗い時代だったことを人に知られたくない人もいるはずある。それを皆に知られたために、人から軽蔑されたり、仲間外れにされたりすることがあるかも知れない。そのような危険なことを、大学教師はしているのかもしれない。誰かの書いたレポートやリアクションを皆の前で紹介することがあるが、それもよほど配慮しないと同じような危険を冒すことになる。
学生も、もちろん対策は考えているであろう。小泉恭子によれば、高校生(特に女子)が「好きな音楽」について語る時、場所や状況に応じて「好み」を使い分けているという(2007,『音楽をまとう若者』勁草書房)。女子高校生は、フォーマルな空間(音楽の授業)やセミフォーマルな空間(部活動)では「スタンダード」や「コモン・ミュジック」を自分の好みの音楽として語り、それを隠れ蓑に「パーソナル・ミュージック」の好みを包み隠し、自己防衛をし、自分の立ち位置や居場所を確保しているという。

大学の授業の中で、指名して発言を求めても、なかなか意見をいいたがらないのは、このような事情があるのかもしれない。つまり個人情報を知られたくない、皆の前で恥を晒したくないという学生の強い気持ちがあるのかもしれない。

それでいきおい、私は授業で、学生に発言を求めず、一方的な講義になることも多い。他の先生方は、この点をどのように考え、対処しているのであろうか。

子ども社会、甘えの社会

もう大人である放送大学の学生と、「放送大学では授業中の私語が皆無なのに、どうして一般の大学で私語が多いのか」というような話をしていたら、「それは一般の大学生が、子どもだからではありませんか」という意見を言う人がいた。
「大人はお互いに気を遣い、相手に失礼になるようなことはしない、それに対して子どもには、どんなことをしても、自分達は子どもだから大人から許してもらえるという甘えがある」というものであった。
 「なるほど」と納得した。
それにしても、世の中には、「何をしても許してもらえる」と、甘えた考えの大人(大人になれない子ども)が多いのではないか。
日本は「甘えの構造」(土居健郎)に満ちているし、弱者にも配慮する社会なので、自分は子ども、あるいは弱者と自己規定し、わがままを通し、権利を主張し、他者(大人)の心の痛みがわからない人が多いのかもしれない。

ブログを読んで下さったMさんよりコメントを頂いた。お礼を申し上げると同時に、掲載させていただく。

<「こども社会、甘えの社会」、全く同感です。私のこどもの頃は事あるごとに「甘えるな」「わがまま言うな」と叱られたものですが、最近会津若松市に行くことが多く、史跡を訪ねると「それでこではないな」と驚愕することがありました。再現された会津藩校「日新館」の入り口に「什の掟」という大きな看板があります。これは藩士のこども達に教えてものです。
【一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。三、嘘を言うてはなりませぬ。四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ。五、弱い者をいじめてはなりませぬ。六、戸外でものを食べてはなりませぬ。七、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。ならぬことはならぬものです。】
また、藩主の別荘だった「御薬園」の茶室に次のような内容の掛け軸がありました。
【「初にも敬いの心を忘れない」人の子であるからには、両親のいらっしゃる奥の間には軽い気持ちで入るべからず。座敷に座る場合にも、真ん中は尊者(長老)や年長者に譲り、子供は隅の方に座る。道を歩く時も、男女それぞれに左右の別があり、道の真ん中は尊者が通られる所なのでそこは避ける事。我が家の門であっても真ん中は尊者が出入りされる所なので、通ったり、立ち止まったりはしない。君門に至っては、尚更の事である。】>

私語のない授業の実践

 大学の授業で私語をなくす方法は、簡単に見つかる。
 今週の敬愛の1年生の授業(教育原論Ⅱ、受講生60名)では、それを試してみて、成功した。
 先週、この授業では、授業中ケータイを見ることを禁止し、その分私語が多くて困ったので、今回はそのリベンジのつもりで臨んだ。その方法は、きわめて簡単である。

 3つの文章を配り(それぞれ1000~2000字程度)、「3つの文章から2つを選び、その内容の要約を書きなさい。さらにそれへのコメント(感想)もあれば書きなさい。(書き終わった人から提出して、帰ってよい)」というものである(「今日のテーマは、価値の教育(その2)であり、それに関連した内容の文章である」と説明した)。
 90分の授業の途中からその指示を出したので、残りの時間は1時間ほどあった。
 すると、おしゃべり(私語)はピッタリ止まり、皆静かに、必死に(?)文章を読み、その内容を要約したり、主要な部分を写したりしている。
 15分ほどで最初の一人が出し、それに4~5人提出が続いたが、その後は途絶え、30分以上かけ、文章を読み要約する作業を続けた学生が多かった。
 「最近の学生は読書をしない、新聞を読まない」と非難されるが、今回の学生の読みと要約を見る限りは、かなり的確に文章の真意を読み取っていることがわかる。

 読ませた文章は、次の3点である。
1 「高校生、親世代よりまじめー「勉強熱心」6割・「遅刻しない」7割,30年で大幅増」(朝日新聞 2012年11月21日、朝刊)
2 武内清「若者の規範意識」『子どもの規範意識を育てる』教育開発研究所、68 ~71 頁)
3 武内清「私語に見る規範意識」『子どもの規範意識を育てる』教育開発研究所、72 ~75 頁)

 講義するより、読ませた方が、学生の理解は進むのではないかと感じた。
 ただ、私語はないが、講義者の語りは少なく、大学の授業たるものこれでいいのか、という疑問は残った。学生は確かに、授業中に何かは学び、多少の「勉強した感」は持ったであろうが、何か腑に落ちなかったのではないだろうか。
(ソフィーには、文章が長すぎ、難解で、理解できない内容だったようだ。ボーとしている)