「いつかはあちら側に行くことの自覚と覚悟」

家の近くにお墓があったり、部屋に仏壇があったりすると、少し憂鬱な暗い気分になるのが普通ではないかと思う。私たちは日常の中で、死をなるべく意識の外に追いやり考えないようにして、明るく暮らしたいと思っている。しかし、それは少し違うのかもしれない。

私の場合、母親が亡くなった後、親の家にあった仏壇と位牌をどうするか妹二人と話し合った。それらは私が引き取るということになったが、親の家の仏壇は大き過ぎたので、小さなものに買い替え、私の部屋に置くことにした。その時、額に入った両親の写真とは別に、祖母の写真も出てきて、それをどうしようか迷った。祖母は結婚してすぐ夫を亡くし、女手一人で子ども(私の父)を育て、戦後の貧しい家計の中で、孫たち(私達)の面倒もよくみて、苦労の連続だった。その苦悩の跡が写真の顔に現れていて、見ていると暗い気持ちになる。結局、父母の写真と祖母の写真を仏壇の傍に飾り、私はそれを見る日々を送ってきた。最近、私の見方も少し変わってきた。それは、藤原新也の次のような趣旨の文章を読んだせいもある。

<己の死の養生としての黄泉の国のお仏壇を勧める。お仏壇が己の死の養生に役立つ。他界した家族や知己の人の写真を居並べ、朝と夕線香をあげるごとそれらの死者の写真に心を寄せる。そうするとその使者と死者のポートレートの間に私自身の姿が浮かぶ。いつかはあちら側に行くことの自覚と覚悟。その黄泉の国の人々の間に私がいるその想像によって、日を重ねるごと安堵の気持ちが生じる。>(藤原新也)

藤原新也は、若い時インドを長く旅行し、インドでは死(者)が日常の中にあり、それは恐れることではないことを,写真集や本の中でよく書いている。そしてそれを小学生にも講義している(再掲)。藤原が言うように、(歳とってきたら)「いつかはあちら側に行くことの自覚と覚悟」(藤原新也)が必要である。