人種差別について

少しテニスをやるものとして、大坂なおみの全豪オープンでの優勝はうれしい。大坂は「見に来てくれてありがとう」と観客に感謝の言葉を述べている。ただ、観客は人種的な偏見がなく、見てくれていたのかが少し心配。決勝の相手ブレイディはアメリカ国籍の白人。大坂が準決勝で戦ったセリーナは黒人だがアメリカ人(アフリカンアメリカン)。このような人種や国籍に関係なく、応援してくれるものなのか。

藤原新也は『アメリカ』(情報センター出版、1990)という本の中で、アメリカには白人の黒人差別はあるが、それ以外に白人と黒人が昔からのアメリカ人としてのタグを組んで、黄色人種への差別のあることをアメリカ旅行の体験から書いている。(添付参照)

日本人も先住民族アイヌへの差別があり、それが今も続いている。しかも考古学という学問分野の中にあることを、昨日(2月20日)のETV特集「帰郷の日は遠くー揺れるアイヌ遺骨返還」で知った。特に昔の東京帝国大学の考古学の教授が、ドイツのナチスの研究に倣って、アイヌの人が劣った人種であることを証明しようとして、アイヌの遺骨を不法に掘り返し研究室に持ち帰った。その後も大学の研究室はその返還を拒んできて、やっと最近、世界の先住民族の遺骨略奪は違法、その返還をすべきという条約によって、返還をするようになったが、アイヌの人に謝罪することを拒否している様子が放映されていた。大学の研究者の思い上がりの強さを見る思いで、恥ずかしかった。

<帰郷の日は遠く〜アイヌ遺骨返還の行方〜」―去年、北海道にオープンしたウポポイ。その慰霊施設に、1300体を超えるアイヌの遺骨が納められている。明治以降、東京大学や北海道大学の研究者らが各地の墓地などから持ち去り保管していた。「先祖の遺骨を返してほしい」。アイヌの人たちは40年前から声を上げ、今、故郷への返還が実現しつつある。しかし、後継者不足などから、遺骨の“帰郷”に戸惑う地域も少なくない。背景には、アイヌ民族が背負う苦難の歴史があった。>https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/V9LGPQ7KG5/

メジロに癒される

以前は、庭の小鳥用の餌箱にパンやミカンを置いておくと、いろいろな鳥が食べに来ていた。(スズメ、メジロ、鶯、オナガ他)特に冬は、他に餌のないのか、来くる鳥が多く、それが楽しみであった。ところが昨年、地域猫(名前はジョウバンニ)が、うちの庭の木にいたつがいのメジロを飛び上がって捕まえ殺すということがあり、それ以来、庭の餌箱に鳥の餌をやることができなくなってしまった。野生の残っている猫を責める訳にも行かない。そこで仕方がなく、2階のベランダの欄干に棒をひもで結ぶ、そこにミカンを切って差して置いた。するとメジロが次々食べに来た。メジロもここまで猫は来ない為、安心してミカンを食べられる。鳥(メジロ)に癒されるひと時。

「風の便り」17号、18号

昨年の12月31日にこの欄で紹介した(旧)「鑿壁読書会」の辻秀幸氏の「風の便り」の17号、18号が届いたので、本人の了解を得て、下記に転載する。印刷の関係で、横向きで、最後の4頁目が最初に来ているが、回転し、1ページ目から読んでいただきたい(もともと親しい友人数人に向けた便り)。短期間にこのようなまとまった文章と写真を掲載できるというのもすごい。

自粛の日々

非常事態宣言が首都圏の千葉県に出て、自粛の生活が続いている。この1年間、東京に一度も行っていない。電車はJR稲毛駅から千葉駅まで3分乗ったのがこの1年間に1度だけ(帰りも入れると2度)。自宅から稲毛駅までのバスに乗ったこともこの1年間に数回。大学には図書館で雑誌や新聞を読むためと研究室に植物に水をやる為に、10日の1度くらい自転車で行っている。外食もほとんどしなくなった。非常事態宣言で、公共の体育館や学校の体育館が使えなくなり、卓球が全くできなくなったのが悲しい(ほとんど毎日卓球としていた年寄りたちは今何をしているのだろう)。ただ、公共のスポーツ施設の外のテニスコートは使え、マスクをして、人との距離をとりながらの練習や試合は可能で、それに週1回参加するのが唯一の楽しみ。また、人の少ない近くの公園や海や房総方面の散策は、密にならないので、年寄りの健康保持の為に許されるであろう。下記の写真は、うちから車で10分のところにある花島公園の菜の花の蕾(小学生が川沿いに種を蒔いたという)。梅も今は咲いている。南房総では春の花が摘める。お蔭で、近場の千葉のよさの再発見にはなっている。

実証性の大事さについて

教育社会学は、実証性を重んじる学問だが、その重要性を再認識するようなことがあった。一つは、児美川孝一郎「GIGAスクールというディストピア」(『世界』2021年1月号)をめぐって、友人と議論したことである。私はこの論稿を読んで児美川氏が、現在の文部科学省の教育政策に対して、社会的な視野から批判的に見ていて、明解な論理展開で、とても感心した。経済政策のSociety5.0が、文部科学省の「個別最適化」に大きな影響を及ぼしているという見方にも感心した。

ところが、教育社会学専攻の友人たちの評価は、私の浅い読みを批判し、実証性やRealityを重んじるべきというものであった。「批判的な論考としての価値はあると思います。でも、教育社会学的、歴史社会学的かというと、きちんとした理論とデータが足りないと思います。1つの研究が社会学的または歴史社会学的であるためには、それなりの社会理論枠組みと、一定のパラダイムに乗っ取った 方法論に沿って集めたデータとその分析が必要と思います。データおよびその分析は、質的なものでも、量的 なものでも構わないと思います。」「社会事象としての Reality が欠如している。ステレオタイプな見方をしていて、教育現場の現実を見ていない。教育現場の観察なり調査なりして、現場の見ての論を展開すべきである」この友人たちの指摘から、実証性の大切さを再確認した。

もう一つは、中村髙康「大学入試改革は『失敗』から何を学ぶべきか―データ軽視・現場軽視を繰り返すな」『中央公論』(2021年2月号)を読んでのことである。昨年の大学入試のあり方の混迷の原因の一つが、入試改革論者が、現実の大学入試問題の実際を知らず、また受験生の思いを全く考慮せず、入試改革を進めようとしたことであること、中村氏は、実際のデータでそれを示して論じている。これからも、実証性の大事さを再認識した。