書評について

学会誌や新聞などで、書評をみる機会が多い。書評の書き方のルールがあるのであろうか。一般的には、本の概要を紹介してそれに若干のコメントを加えるというものだと思うが、評者はそれだと面白くないと思うのか、書評を利用して持論を展開するひともいる。慇懃無礼な書評もあるし、見当外れの酷評を書き、著者の逆鱗に触れるものある。学会誌では、著者に反論を書く機会が与えられる場合もある。いずれにしろ、人と人との意見の交換なので、難しいところがある。

新聞などの書評は、内容の忠実な紹介や批判よりは、読者がその本を読みたくなるような書き方が要求されるのではないか。大新聞は著名な人は書評を書いているので、その書き方が皆上手で、読みたくなるものばかりで困る。今毎週土曜日の朝日新聞朝刊には教育社会学の本田由紀・東大教授がよく書評を書いていて、その選択の本が興味深く、さらにその視点、構成、文章が巧みでいつも感心する。新聞で本田教授が取り上げている最近の本は、下記のである。そのいくつかを、記録にとどめておく。(朝日新聞デジタルより転載)(www.asahicom.jp/articles/

(本田由紀・書評本、最近のもの)『科学の人種主義とたたかう』 アンジェラ・サイニー〈著〉(2020/09/12)/『パンデミック 世界を揺るがした新型コロナウィルス』 スラヴォイ・ジジェク〈著〉(2020/08/29)/『悪党・ヤクザ・ナショナリスト 近代日本の暴力政治』 エイコ・マルコ・シナワ〈著〉(2020/08/22)/『「山奥ニート」やってます。』 石井あらた〈著〉(2020/08/08),/『新自殺論 自己イメージから自殺を読み解く社会学』 大村英昭、阪本俊生〈編著〉(2020/07/25、/『道行きや』 伊藤比呂美〈著〉(2020/07/11)、/『学校の社会学』 M・ブランシャール、J・カユエット=ランブリエール〈著〉(2020/07/04)/『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』 田野大輔〈著〉(2020/06/20)/『鉄筆とビラ』 都立立川高校「紛争」の記録を残す会〈編〉(2020/06/06)/『校歌の誕生』 須田珠生〈著〉 『音楽文化 戦時・戦後』 河口道朗〈著〉(2020/05/23)/『保健室のアン・ウニョン先生』 チョン・セラン〈著〉(2020/05/09)/『先生も大変なんです いまどきの学校と教師のホンネ』 江澤隆輔〈著〉(2020/04/25)/『それを、真の名で呼ぶならば 危機の時代と言葉の力』 レベッカ・ソルニット〈著〉(2020/04/11)

(書評)『パンデミック 世界を揺るがした新型コロナウィルス』 スラヴォイ・ジジェク〈著〉/ 野蛮を脱する世界連帯の未来像/ 本書の原著は、新型コロナウイルス感染症(COVID―19)の世界的流行が顕在化してきた、今年2月から3月にかけて執筆されている。それが急遽(きゅうきょ)刊行され、さらに翻訳されて、7月に日本でも出版された。/ 驚くべきは、流行の早い段階で短期間に書かれた本書には、全人類を脅かすウイルスがもたらす社会的・経済的・文化的な影響と、それをいかに乗り越えてゆくべきかについて、私たちが考えなければならないことがきわめて包括的に論じられていることだ。/ 感染拡大をめぐり、国家はときに情報を隠したり歪(ゆが)めたりする。しかし危機のもとでは、独裁もポピュリズムも役には立たない。環境破壊は新しいウイルスの流行をこれからももたらし続ける。従来の市場メカニズムは十分に機能しなくなり、生産や流通を市場以外の方法で調整しなければならなくなる事態も生じる。「我々はみな同じ舟に乗っているのだ」。共通の脅威を前に、資本主義にしがみつくのでも、国家間対立でもなく、世界的な連帯こそが必要だと著者は述べる。/ より身近な生活に目をやれば、外出や営業が制限される中でも、いわゆるエッセンシャルワーカーは仕事を続けなければならない。感染症患者を受け入れる医療の現場では負荷と疲労が極限まで増大する。それは、テレワークで安全に隔離された「クリエイティヴなチーム業務」における利益や昇進をめぐる競争とは全く異なる性質の疲労であり、著者はその疲労が報われるべきだと主張する。/ 描かれる新しい「共産主義」が夢想にすぎないと冷笑されるであろうことも著者はお見通しである。しかし、ロックダウンに際しての補償、検査キットの製造と供給などの形で、生命と生活を維持するための非市場的な施策はすでに現実化している。パニックと野蛮を脱してその先に進むことを選ぶのであれば、著者の掲げる未来像から目を背けることはできない。 評・本田由紀(東京大学教授・教育社会学)

 (書評)『学校の社会学-フランスの教育制度と社会的不平等』 M・ブランシャール、J・カユエット=ランブリエール〈著〉/ フランスの教育社会学といえば、ブルデューやブードンの研究が著名である。しかしそれ以外は英語圏の研究が参照されがちな中で、本書は近年のフランスの教育の動向と多様な研究成果を、「不平等」を軸に包括的に紹介している。/ バカロレア(大学入学資格試験)の取得率は増加したが、家庭背景や性別などによる進路選択の偏りは残る。複雑に分岐した教育制度と、減少したとは言え留年の仕組みをもつフランスでは、不平等を把握するために多様な指標を用いる必要があり、そこが研究者の腕の見せ所(どころ)となる。/ 進学率が上昇しても相対的不利が続くことを表す「引き延ばされた排除」など、普遍的有効性をもつ諸概念が目を引く。/ 訳は硬めで、他の言葉を充てた方がよいのではと思われる箇所もあるが、「教育格差」が話題となっている日本の現状と照らし合わせて読むことで、現代における教育の隘路への理解が深められるだろう。(評 本田由紀)

追記 内田樹は氏のブログ(2020-10-09)に「(あまり)書評を書かない理由」という題で、書評について<『よい書評』とは「それを読んだ書き手が、『よくぞ書いてくれた』と手の舞い足の踏むところを知らず状態になり、ねじり鉢巻きで次回作にとりかかるようになるもの」だとは考えている。そういうものをいつかは書きたい。>と書いている(http://blog.tatsuru.com/)。私の考えもこれにかなり近い。

偶然ということ(その2)

もう少し偶然に関して書いておきたい。{わたくしはなぜ教育の道を志したか}にも書いたが、駒場の大学2年の教養課程から本郷の3年の専門学部に進学する時の最初の希望は、その頃勢いのあった宗像誠也教授や持田栄一教授のいる「教育行政」学科に出した。ところがそこは文科Ⅲ類からの希望者が定員以上いて、理科からの希望の私は無理と判断した。それで希望が多いけれど定員には充ちていない「教育社会学コース」に希望を変更し、3年次に進学した。あの時、第1志望の「教育行政学科」に進学していたら、私はそこの学科の学風に感化され、イデオロギー性の濃い思想の持ち主になっていたように思う。「教育行政コース」への進学がかなわなかったという偶然が、私のその後の進路を変えた。教育社会学の研究室は、当時量的な社会調査が重視され、学部3年の「教育社会学調査演習」の授業では、指導教授の松原治郎先生や院生の牧野暢男氏の指導のもと仮説設定から、調査の設計、調査票の作成、調査の実査、データの集計と分析、報告書の作成に多くの時間を割いた。この時の経験が、私のその後の研究の主力を量的調査に向かわせた。もし研究室の雰囲気や指導教授の研究傾向が違っていたら、私の研究も別のものになっていたのではないかと、その偶然にも思いを馳せることがある。

同じ「教育社会学」の講座でも。京都大学の教育社会学研究室の学風が全く違い、政策研究や実証的な研究よりは、理論的、歴史的、文化的(時に文学的)、人間的な研究が主流だったのではないか。そこに進学していたら、私の研究はかなり違うものになっていたであろう(このように、大学でどの学科やゼミに所属するかはその人の思考傾向に大きな影響を与える)。私自身は、京都の学風を作田啓一や多田道太郎、井上俊、竹内洋氏らの文献を読むことでしか知ることが出来なかったが、強いあこがれを感じ続けていた。京都の教育社会学の研究室で学んだ石飛和彦氏(天理大学教授)は、当時の研究室の授業の様子の一端を、氏のブログに書いていている。その箇所を読むと、東大とはかなり授業の内容や雰囲気や学問の継承の仕方が違うことがわかる(転載箇所は、非常勤で授業を担当した社会学者の大村英昭教授のこと)。

<たしか大学院のM2のときに大村英昭先生が集中講義でいらしたんだったと記憶する。ゴフマンの話をされて、たしか落語のような口調とあいまってすごくおもしろかったという印象の記憶があり、また、ゴフマンの邦訳書についていろいろ言っておられたような記憶がある(まぁ翻訳についてというか…「出会い」って何なんだ、とか…)。ジラールの模倣欲望についても話しておられたような覚えもあり、自分はレポートでジラールについてなんか文句を言ったような言わなかったようなM2的イキりを発揮したようなものを書いて提出したような覚えもある。ともあれ、大村先生は、面白くてすごく切れる、恐ろしい先生、という印象なんである。 (中略) また、大村先生が、自殺の例として「いじめ自殺」をあげて、それを、正当にも「愛他主義」(と「宿命主義」)に関連付けているところに共感しつつ、自分も以前そんなことを書いたり学会発表したりしたなあと思い出したりしてた。それはまぁ、世代、ということで、大村先生のものを読み、また集中講義を受け、またそこから自分はエスノメソドロジーのほうに行きたいと思って、じゃあ何をどう考える、とか、また薬師院さんのデュルケーム論を読み、そのうえでデュルケーム=ゴフマン=ガーフィンケルの線で何が考えられるか、みたいなことをぐじゃぐじゃいいつつ大学院生時代を送っていた世代なわけだから、まぁ、この本は、なにか懐かしい、しかしそこから自分はなにか別の一歩を進めようとしていまに至る、みたいな、そういうかんじが、個人的に、したわけである。(以下略)(「粛々と通勤電車で読む『新自殺論』。大村英昭先生の新著。https://k-i-t.hatenablog.com/