授業から深い学びへ

「内外教育」という週2回発行の教育関係の情報誌(4月2日号)に、短い文章を書かせてもらった。

「授業から深い学びへ」というタイトルを付けたが、それは「授業」を軽んじているわけではなく、「授業」こそ学びの基礎になり、「深い学び」に通じている、ということを言いたかった。

映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観る

1年ぶりくらいに映画館で映画を観る。観た映画は、「ボヘミアン・ラプソディ」。日本で昨年の売り上げ成績NO1と言われる映画だが、昨日(10日)の千葉の映画館では私も含め観客は8名。映画(館)の斜陽を感じた。                     映画の内容自体は、前半の4分の3は以前に見たクイーンのドキュメンタリ―(テレビ)の方がよかったと感じる出来。しかし、最後の20分のクイーンのスタジアムでのライブの様子は圧巻で、一つのバンドがこれだけ多くの人を感動させることができるのかということを実感させるもので、これは映画館で大音響で聴く価値があると思った。                     ネットでこの映画の感想をみると(下記に一部抜粋)、同じように感じている人が多く、自分の感受性が平凡なこと自覚した。

「Queenの曲が良かっただけです」「伝記映画としても音楽映画としても、足りてない部分や踏み込みの甘い部分が多い映画だと思っている。(しかし)それ以上に、観客に応援したいと思わせるいい意味での隙のようなものが、この映画が描いているフレディ・マーキュリーにも作品自体にもある」「この手の映画にありがちな役者が本人を演じて歌うなどの演出が全く無い、全編の歌声をフレディマーキュリー本人の歌声を使うある種の英断で、ライブパフォーマンスはすこぶる良い。」「伝説のロック・グループの知られざる物語と、大音響で奏でられる実物の音源を使ったヒットナンバーがもたらす高揚感が、終始絶妙にシンクロして、恐らく劇場に詰めかけた観客の想像を大きく超えて魂を揺さぶり続ける。終映後、自然と拍手が巻き起こる。リピーターが劇場に足を運ぶ。彼らは、かつて、そして、今も心の中で口ずさむ”ボヘミアン・ラプソディ”の背後に、今は亡き”クイーン”のボーカリスト、フレディ・マーキュリーの凄絶な孤独を垣間見て、強烈な昂ぶりの中で人知れず涙を流すのだ。”ライヴ・エイド”のステージと客席の一体感は何だ!?、すべてひとまとめにして高みへと導いていく音楽というメディアの凄さを、こんなにも強烈に体感させてくれる映画は珍しい。今も耳の奥でフレディの艶やかなハイトーンボイスが鳴り響いている。」「やはりこれは、映画館の大スクリーンで観てこそだと思います。終盤のLIVEエイドで感動しました。」https://eiga.com/movie/89230/review/ lsdprior

追記 「ボヘミアン・ラプソディー」の歌詞とその意味に関しては、ネットにいろいろな解釈が披露されている。たとえば、www.magictrain.biz/wp/blog/2018/06/04/

追記2 映画「ボヘミアン・ラプソディー」がアマゾンでレンタルできるというのでテレビで2度目を見た。2度目は細部がよくわかり音楽もよく聴けて、映画の出来もいいと感じた。

https://www.youtube.com/watch?v=81ERF5S3x3o

仙台の歴史探訪   水沼文平

一昨日友人達と花見に行きました。西公園、仙台二高、仙台一高は一部咲といったところで、花見にはなりませんでした。

仙台一高では屋内にある初代校長大槻文彦(国語学者・「言海」の編者)の胸像を見せてもらいました。去年の3月6日の先生のブログに「大槻文彦とネコ」を掲載していただきました。大槻玄沢(蘭学者)、子の 磐渓(漢学者)、孫の 文彦と続いた岩手県一ノ関(仙台藩)出身の学者一族です。それから近くの南鍛冶町にある泰心院に移築された仙台藩校「養賢堂の正門」を見に行きました。養賢堂は現在の県庁にありましたが、明治になり馬車が通れるような西洋門に作りかえたので有志の働きでこの地に移築がなったようです。養賢堂が生んだ林子平(開国兵談)、高野長英(蛮社の獄)、玉虫三太夫(奥羽越列藩同盟)、星淳太郎(額兵隊)、新井奥邃(キリスト者)、千葉卓三郎(五日市憲法)達がこの門を潜り勉学に励んだことを思うと感無量でした。(門と桜の写真を添付します)

その後、保春院前丁にある「保俊院」を訪ねました。保俊院は政宗の母(義姫)の諱(おくりな)です。義姫は  1623年に仙台城で死去、北山の覚範寺に葬られました。享年76才。政宗は1635年、母の十三回忌にあたり菩提を弔うため、若林城(政宗の隠居所)の付近に「保春院」(臨済宗)を建立しました。この保俊院に仙台人が忘れてはならない「玉虫左太夫(たまむしさだゆう)」の墓があります。1823年仙台に生まれ、藩校養賢堂に学び、24歳の時江戸に出て昌平坂学問所で学び塾長となった人物です。1860年には日米修好通商条約の批准書交換のために幕府使節の一員としてアメリカに渡っています。鳥羽伏見の戦いの後、新政府から仙台に会津追討が命じられますが、会津に同情した仙台藩はそれに抗し、三太夫は正使として会津に赴き、奥羽越列藩同盟締結に尽力しました。しかし藩論が薩長支持に一変すると、三太夫は新政府に捕えられ東京で切腹を命じられました。1869年4月14日 享年47歳です。お寺には仙台市の案内板があり、玉虫家の数基の墓は見つけましたが、三太夫の墓は確認できませんでした。家に帰ってネットで調べたら、墓は実在しており、表面に「玉蟲拙斎之墓」、側面には「明治二年四月九日逝歳四十六友人横尾某建以代墓成」と刻まれているとのことです。新政府にとっては重大な政治犯であり、遺族や友人達は、世を憚ってこのような墓にしたのでしょう。また確認に行こうと思っています。

最後は木ノ下の「陸奥国分寺跡」です。741年聖武天皇の発願で全国に建立された国分寺の一つで最北の国分寺です。広大な伽藍の跡を示す巨大な礎石に驚きました。当時仙台に住んでいた東北縄文人(蝦夷)の子孫はその壮大な建造物を見て恐れ入ってしまったのかも知れません。七重塔跡、政宗が再建した薬師堂などを見て帰路に着きました。

このような歴史探訪を二月に一度の割で楽しんでいます。その土地の歴史を前もって学習していくと楽しさも倍増します。(水沼文平)

千葉の桜(その2)

(今日(7日)は天気もよく、お花見日和で、家族で近くの桜を見に行こうということになり、家から車で30分のところにある泉自然公園(
https://www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/kanri/wakaba/izumitop.html)に行く。入場料も駐車料料金も無料の公立の公園だが、自然が残っているとても大きな公園で、きれいな桜がたくさん見られた。(過去には、2012年4月8日、2015年4月26日に行った記録がブログにあり、3~4年ごとに1回行っている)。

令和についてのトーク,コメント


2か月に1度くらいの頻度で、藤原新也のCat Walkのトークが、公開される。今回新元号「令和」について。氏らしい内容のコメントが公開されている。(一部転載する)

劇場化された新元号に関して。(Cat Walkより転載) 「令和」 ・文字としては座りが悪い。この令和には揮毫したいという意欲をそそる魅力がまったくない。それはこの人を見て写真に撮りたくなるかどうかと同じであり、令和には写真に撮りたい“姿”というものがないということである。・“筋”が見えない。筋とは例えば人間の背骨のような基本骨格であり、それがないからこの令和という文字は堂々と立っていないのである。・それに新元号に対する熱狂が過剰である。安倍総理の舞い上がりぶりは、内閣支持率が一つの人気の指標となった今日、新元号に便乗しての人気取りの恣意が透けて見える。巨大災害と事故はその後何をもたらしたと、いうと災害事故によって発症する被害妄想から来る居直りめいた日本賛美と右傾化である。日本はこんなに美しく素晴らしい。外国人はこんなに日本を賛美している。震災以降、テレビをはじめとする様々なメディアで日本賛美番組や記事がゾッとするほど増えたことは皆さんもご承知の通りである。・新元号令和はそういった大震災や原発災害で自信を失い、その反動としての日本賛美や一部の過激な右傾化の排出した時代背景の中で発表されたということだ。この過剰な熱狂もまた私には平成時代に発症したひとつの精神的外傷の発露のように受け取れるのである。・グロテスクでさえある右傾化と私たちが日常的に共有する時代名称とは全く無縁でなくてはならないということを心に留め置かなくてはならないだろう。(藤原新也  shinya talk より一部転載  www.fujiwarashinya.com/talk/

Cat Walk の会員からも多くのコメントが寄せられているが、令という字から連想するのは律令、法令など、政府の決めたことに逆らわず、素直に従う人々による社会をつくろうというメッセージを感じる、という意見が多かった。 これは、マスコミが好意的な意見を多く掲載しているのと大きく違う。いずれにしろ、これから「令和」という元号を使わざるを得ないので、これになじんでいくしかない。

追記 内田樹もコメントをブログに掲載している(一部転載)http://blog.tatsuru.com/2019/04/02_0912.html

文化的多様性を重んじる立場から、私自身は日本が固有の時間の度量衡を持っていることを端的に「よいこと」だと思っている。元号は645年の「大化」から始まって、2019年の「令和」まで連綿と続く伝統的な紀年法であり、明治からの一世一元制も発祥は明の洪武帝に遡るやはり歴史のある制度である。ひさしく受け継がれてきた文化的伝統は当代のものが目先の利便性を理由に廃すべきではない。                                 元号は、天皇制に深くかかわる国民文化的な装置であり、すべての国民が心静かに受け入れられるように最大限の注意をもって扱うべき事案である。安易に党派的な利害に絡めたり、経済波及効果を論じたりするのは、文化的伝統に対して礼を失したふるまいと言わざるを得ない。