趣味

世の中には、自分の趣味で、コツコツ楽しんでいる人がいる。最近、昔の知り合いから趣味で作った冊子をいただき感心した。それはガラケーについているカメラで撮った昆虫の写真をパソコンに取り込み、それを編集して小冊子にしたというものある。蟲の写真もきれいで、構成も、文章もよい。かなり時間をかけて作ったものだと思うが、印刷は数冊で自分用と親しい友人に配布しただけだという。1冊いただいた。了解を得て、ここに転載させていただく。

私が大学3~4年生の頃、近くの図書館で開かれていた鑿壁読書会でご一緒した方で、40年ぶりにお会いして旧交を温めた。若い時の知り合いはありがたいもので、40年の隔たりは一気に飛び、普段会っている知人のような感じで話が弾んだ。

金銭観のこと


お金のことを話題にするのははしたないという文化が日本にはあると思う。講演の謝礼も、金額は明示されず、講演が終わってから渡され、そこではじめてその額を知る。原稿料もそうである。お坊さんへの礼やお布施も金額を聞くのははばかられ、適当に包んで渡す。

また、人それぞれ金銭感覚が違う。金銭(収入等)にこだわる人もいれば無頓着な人もいる。日頃の消費の額も、人により(あるいは世帯により)違う。1日の食事代も人や世帯によって違うのであろう。たとえば、お昼に500円のお弁当を買って食べることをつつましい(貧乏くさい)と感じる人もいれば、贅沢と感じる人もいるであろう。飲み会の会費が4000円だと安いと感じるのか高いと感じるのかは、人により違う。

私は戦後の貧しい時代に平均的な家庭に育った(つまり貧しかった)ように思う。父が中小企業のサラリーマンで祖母や母が内職をしてやっと生計が成り立っていた。つつましい生活だったように思う。家族で旅行に行くこともなかったし(そのような余裕はなかったのであろう)、外食をすることもなかった。そのような育ちから学んだことは、人は一生懸命働き衣食住が不自由なければいいということである。それで、金銭への執着もないと自分では思っている。高級住宅地、豪華な家、高級車、グリーン車、高級レストラン、ブランド服等に関心がない。(人はこれを評して「お里が知れる」とか「貧乏人根性」というかもしれない。*)

今、人と会って飲食をともにするような時、どのくらいの金額のところが適切なのか迷う時がある。働いていた時は、多少の高額でも気にならならなかい人が多かったように思うが、周囲が定年退職者ばかりになると、多くの人は費用(金額)のことが気になり出す(常勤で働いている人にはそれがわからないであろう)。お金のことを表に出すのははしたないという意識(文化)があるので、一層気を遣う(誰が払うべきなのか、割り勘にすべきかどうかということも含めて)。

*有島一郎だったか太宰治だったか忘れたが、自分の生家が金持ちの家であることを恥じたということを読んだことがあるが、私の場合はそれとは違い、自分の育ちが貧しかったが(ので?)、それを恥じるということはなかったということである。社会学を生業とするものは、貧者や弱者の味方になって論じるのが当たり前なので、困ることはない。リッチな生活を送り、貧者の味方のような論を展開する研究者は信用されないであろう。ただ、努力して社会的に認められること目指すことは否定されるべきでない。大学の教師でベンツに乗っている人はほとんどいないのではないか。大学教師で偉ぶっている人に会ったことはない.

低いテンションで千葉で暮らすということ

今日は、千葉県内のしかも近場であるが、JR稲毛駅を経由して、千葉駅、本千葉、船橋駅という場所に行く機会があった。同じ千葉県の近場の駅であっても、そこの雰囲気、行きかう人の感じ(服装等)などが微妙に違うのを感じた(東京や、他の土地と比較するともっと大きな違いであろう)。

本千葉は、千葉駅から電車で3分くらいのところにある駅であるが、東京方面からくると千葉駅で乗り換えなければならず(直通も1時間に1本くらいはある)、電車の本数も15分に1本程度で、駅前は閑散としている。駅を降りて近くを歩いてみると、大きなスーパーはあるものの車の通りは少なくとても静かで、のんびりしていて、住みやすそうと感じた。千葉駅は最近リニューアルオープンして新しい店がたくさん開店したが、何せ千葉の田舎から出てくる人が行きかっていて、都会的センスからは程遠い。稲毛駅も、駅前の店や行くかう人は多いが、ただ雑多なだけで、千葉の田舎のセンスから脱せられていない。
一方船橋駅は、東京に近く(快速で20分)、駅の北側に東武デパートがあり、2つの線の乗り換え駅でもあり活気があった。駅ビルに入っている飲食店もなかなかおしゃれで、行きかう人も千葉県にしてはセンスのいい人が多いと感じた。

このように千葉は(東京には比較的近いとはいえ)、みな気取りもなく普段着で過ごしているという感じで、低いテンションで過ごすことができ、気楽でいいと思う。ただ、これから一旗あげようと考えている若い人には物足りないかもしれない。若い時は、もう少しハイテンションで暮らした方がよいのかもしれない。

追記;I氏より、下記のような本が出ていることの情報が寄せられた。<マイクロマガジン社の特別地域シリーズで、千葉県では以下のタイトルが出ています。過去に東北のを数冊読みましたが、各地域の少し突っ込んだ情報を得るのにはかなり良いです。/日本の特別地域 特別編集79 これでいいのか千葉県船橋市 (地域批評シリーズ) 2018/2/17/地域批評シリーズ13 これでいいのか千葉県千葉市 2016/10/13/これでいいのか千葉県葛南 (日本の特別地域特別編集) 2011/9/14

放送大学 退任記念講演(小林雅之氏)

放送大学の各学習センターには客員制度があり、私も過去に東京文教学習センターの客員を5年間務めた。その後5年間客員教授を務めた小林雅之氏の退任記念講演が下記のように今週開催されるようだ。内容を転記しておく、詳しくは、放送大学のHPを。https://www.sc.ouj.ac.jp/center/bunkyo/news/2019/03/02104900.html

放送大学東京文教学習センター 退任記念講演会/講師:小林 雅之(客員教員)/■ 日時:平成31年3月16日(土)14:00~15:30(13:30受付開始) /題目:「大学進学機会と教育費」/■ 定員:80名(定員になり次第、締め切らせて頂きます)/■ 参加費用:無料/■ 会場:放送大学東京文京学習センター2階 講義室2/ 地図 http://www.sc.ouj.ac.jp/center/bunkyo/about/access.html

https://krs.bz/u-air/m?f=1333

■■ 講演の概要: ここでは、大学の進学機会とそれに大きな影響を与える教育費の問題を取り上げます。そのためには、まず「大学とは何か」について、考えるために、大学の過去と現在を大きく見ていきます。大学は中世ヨーロッパに創設され、次第に世界各地に広がっていきます。現在の大学の原型は19世紀のベルリン大学で、それはアメリカで発展して現在に至ります。それに対して近代の日本では大学はどのように発展してきたのか。そして、進学機会はどのように拡大してきたのか。それらをふまえ、教育機会と教育費の問題を取り上げます。現代の日本では大学進学の機会の格差が大きな社会問題となっています。なぜ教育機会には格差が生じるのでしょうか。ここでは教育機会の格差の要因を検討していきたいと思います。また、日本ばかりでなく、教育機会の問題は、アメリカ、イギリス、中国などでは以前から大きな問題であり、現在も活発な論争が続いている。こうした教育格差の要因のひとつが教育費負担のありかたです。こうした教育費負担観の差について比較することで、学生への経済的支援など日本の教育費負担のあり方について理解していただきたいと思います。


道徳教育について

世間の考えと教育界の考え方には、乖離がある場合がある。たとえば、道徳教育についての考えはその例だ。道徳教育は、今教育界では「特別な教科」として重視されている。その教える内容も、自分、他者との関係、社会との関係、自然や崇高なものとの関係に関して、世界のどこでも通用するような普遍的な「道徳項目」が挙げられている。                         ところが、一般の社会では(特に文学者?)では、道徳(教育)は、人気がない。近代文学の研究者で有名な石原千秋氏(早稲田大学教授)は、道徳教育に関して、かなり激しい言葉で「必要ない」と言っている。

<人の心を変えたり1つの道筋へ方向付けしたりするのは、神か仏か悪魔に任せておけばいい。生身の人間が教室でやっていいことではない。><電車やバスの優先席でスマホを操作しないこと。これは単なるマナーの問題だろう。道徳は日常生活の中で身につけるものだ。教室で身につけるものではない。><私たち大人になると、みんな自分が甘ったれた若者だったことを忘れて、甘えは若者の専売特許だと思い込んでしまう。だから自分の中にある甘えにも気がつかない。そういう大人がもっともやっかいなのだ。なぜなら、他人に「道徳」を押しつけたがるからだ。>(石原千秋『なぜ「三四郎」は悲恋に終わるのか』集英社新書、2015、p142、p158)

教育社会学の立場からすると、道徳とマナー(や作法)の違いを冷静に分析し、学校の道徳教育の時間に何ができるのかを考えればいいということになるように思う。加野芳正編著『マナーと作法の社会学』(東信堂)は、緻密な考察をしている(一部転載)

<マナーは、「ヒトが自己あるいは他者のもつ動物性の次元になるべく直面しないですむように作り上げた一種の身体技法」と定義することができる。それは多くの場合、教育や躾を通して身体化される。マナーの精神の根底にあるのは他者に対する配慮であり、自分勝手な行動を抑制し、快適な市民生活を維持することである。><マナーは法と道徳の中間に位づく準ルールであると言われる。><道徳は内面的原理であり、それがルールやマナーと結びつくことによって、行為として表象される。>