英語教育の意味

現在の英語教育に関して内田樹氏が、興味深い内容の講演をしていることを、氏のブログの文章から知った。blog.tatsuru.com/2018/10/31_1510.html
要点は、①文科省は英語教育の目標に功利的なものをあげ、外国語を学ぶ文化的な意味に全く言及していない。② 英語のオーラル・コミュニケーションの強調は、アメリカの植民地支配に屈することである、の2点である。

その要点部分を抜粋したのが、下記である(この抜粋の仕方に、私の見方は自然に入っている。内田氏からは「もっと複雑なことを言ってるよ」と言われそう)。

<外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。
しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には「目標文化」が存在しません。英語はたしかに「目標言語」なのですけれど、めざす「目標文化」はどこかの特定の文化圏のものではなく、グローバルな「社会的な格付け」なのです。高い年収と地位が得られるなら、どの外国でも暮らすし、どの外国でも働く、だから英語を勉強するという人の場合、これまでの外国語教育における「目標文化」に当たるものが存在しない。
文科省は、低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティヴにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。文科省の英語教育についての基本政策が「金の話」と「競争の話」(と)「格付け」の話です。ここには異文化に対する好奇心も、自分たちの価値観とは異なる価値観を具えた文化に対する敬意も、何もありません。
外国語の習得というのは、本来はおのれの母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものを習得ゆくプロセスのはずです。
何でこんなに急激に(英語の)オーラルに偏ってきたかというと、これは日本がアメリカの属国だということを抜きには説明がつかない。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有する。植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。植民地支配者たちは自分たちの文化的な本質を植民地原住民に理解されたくなんかない。だから、原住民には、法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない。(それは)「アメリカという宗主国」の知的アドバンテージを恒久化するためです。>(内田樹氏の文章の抜粋)

元の文章(全文)は、下記で読める。
blog.tatsuru.com/2018/10/31_1510.html

内田樹が昨今の英語教育の動向に関して指摘する点は、これまでそのように考えたことはなかったので、新鮮さを感じた。
ただ、あえて疑問を呈するとすると次のような問題があると思った。
ひとつは、氏が思想家として卓越しているにしろ、自分の昔の体験を一般化できるのだろうかということ。時代は大きく変わり、英語の機能や意味も昔と変わっているのではないか。もう一つは、英語による植民地支配という観点は社会学的には興味深いが、(英語)教育の観点からすると、教育に素人の雑な言い分のような気もする。

ニュース(報道)の見方について-ハロウイーンの「騒動」に関連して

黒澤明の映画「羅生門」(https://ja.wikipedia.org/wiki/羅生門_(1950年の映画) 」ではないが、何が事実なのかは、語る人によって違っている。

今年のハロウイーンの渋谷の若者たちの「騒動」に関しても、報道するマスコミや人により見方は違う。
一般的は、近年の若者たちの成人式での「騒動」のように、「一部の若者が常軌を逸して騒ぎ、そのような傾向が今の若者の行動や心情にある、嘆かわしい」とマスコミが書き、多くの人もそれを信じるという傾向にある。

実際は、それとは大きく違っているのかもしれない。
ハロウイーンに関しては、渋谷に集まるのは、若者のごく一部であるし、多くの日本の若者はハロウイーンを契機に皆で集まりお菓子でも食べて盛り上がろうと考えている程度のものが多いのではないか。(10月30日にデズニーランドに行った娘家族に聞いてみると、入場者で今年は仮装している人が少なかったとのこと)

実際の渋谷に行って若者を見ていないので、軽トラックをひっくり返して騒いでいた若者が、渋谷に集まった若者のどのくらいの割合であるのかわからない(テレビニュースなどをみると、多くの若者がそれに同調しているように見えるが)。
そのような騒ぎを起こしているのは、外国人で日本人はそのようなことはしないという見方をする人もいる。また、(これは冗談だと思うが)どうせひっくり返すのなら、そんな貧しい人が乗っている軽トラックではなく、お金持ちの乗っているベンツやBMにすればいいのに、と不穏な発言をする人もいる。
また、その軽トラックを運転していた人自身が、故意に車で広場に侵入し、自分で若者たちに「トラックの荷台に乗り騒げ」と扇動していたという動画もインターネット上には配信されている。そのことに関して、テレビなどマスコミは何も報道していない。

とにかく、同じ事件に関しても、見方によって事実(真実)は変わってくるので、我々は気をつけて、ニュース(報道)を読み、その一方的な見方には気をつけなければいけない。
そして、自分の先入観を補強するようなニュースの見方をしないように気をつけなければいけない。

渋滞の中 紅葉を見に行く(続き)

苗場は、標高1000メートルのところにあり、もう山の方の紅葉はほぼ終わっている。
田代のゴンドラの運行は今日(11月4日)まで、苗場のゴラゴンドラの運行も11日までということで、高い料金(往復で2600円)を払っての乗車はやめた方がいいとも思ったが、ここまで来たのだからと思って、思い切って乗ることにした。
確かに紅葉の盛りは終わっていたが、旬を過ぎた紅葉の味わいのあることを、知ることになり、ゴンドラに乗ってよかったと思った。ゴンドラは苗場から田代まで25分間の長い運行で、いい景色を十分楽しませてくれたし、田代で降りたところからさらに山を徒歩で上り、周りの景色もいろいろ楽しむことができた。ゴンドラからや降りてから歩いて見るあたり一面の紅葉の後は、味わいのある光景であった。

午後は、越後湯沢の方に車で降りて行ったが、そこでびっくりしたのは、越後湯沢の街を囲む山々の紅葉の綺麗さである。ここに住み人々は、このような紅葉を毎年見ながら生活しているのだという驚きである。ここの人たちは、どこかに紅葉を見に行く必要は全くない。
逆に「紅葉を見に行く」というのは、周囲に自然を失った人がわざわざすることで、普通に自然豊かな地方に住む人からすると笑止ものなのかもしれないと思った。
少し先の六日町まで行くと、八海山の山頂が雪をかぶり、そこに紅葉が映えてなかなかいい景観になっていた。八海山はなかなか迫力のある山である。
(帰りは、渋滞を避けて、苗場を午後8時過ぎに出たら、渋滞は全くなく、車はスイスイと道路を進み、行きは7時間かかったところ3時間10分で稲毛の自宅に着いた)

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渋滞の中、紅葉を見に行く

お正月やお盆や大型連休の高速道路の渋滞のニュースを見るにつけ、このような渋滞の中、出かける人の気が知れないと思う時があるが(実際は、その時でないと帰省できないとか休暇が取れないとは事情があるのであろう)、自分がそれを経験するとは思わなかった。
この連休(11月3日、4日)は、秋の連休とは言え、通常の土日の休みと変わらないし、
たいした混み方ではないだろうと、家人と紅葉を見に、3日の午前8時前に車で稲毛の自宅を出た。
最近、高速の外環が、市川から三郷に繋がり、千葉から都心の混雑を避け、高速の関越や東北道に乗ることができるようになり、千葉県から北に行くのが大変便利になり、時間が短縮した。
それを使って関越の入り口までは1時間余で行ったが、関越は大変な渋滞で、そこから群馬の藤岡まで行くのに4時間かかった(通常は1時間半で行ける距離)。途中のパーキングも大変な混みようで、パーキングに入るのに2キロ手前から車が並ぶという状態であった。
その為、谷川岳あるいは軽井沢の紅葉を見に行こうという当初の考えを諦め、人の少ない苗場をめざした。関越の月夜野で高速を降りて、三国峠を登った。三国峠はカーブが50もある難所だが、車も少なく、紅葉がちょうど見頃で、来たかいがあったと思った。

苗場には午後3時に着いた(家を出てから7時間が経過)が、その日はゴンドラに乗ることは諦め、ボードウォークを散策した。そこで出会った人は2組だけであったが、その紅葉の趣に感嘆した。紅葉の旬は過ぎているが、少し枯れ始めている紅葉の趣は味わいがあっていいものだと思った。
 「春に新芽を出し、暑い夏を生き抜き、秋に紅葉して、落葉する」といった葉の1年のサイクルに、人の一生を重ねてみて、勝手な感傷にふけっていると言われそうな気もするが、旬を過ぎた紅葉もなかなかいいものだと思った。

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偶然? 因縁?

遭遇する確率はごくまれなはずなのに、それが起こることが時々あり、びっくりする。
数年前、京都駅で、もう20年以上も会ったことのない親戚の子(甥)にばったり会い、その奇遇にびっくりし、立ち話ながら近況を報告しあった。
3日ほど前(11月2日)、寝る前にたまたまNHKテレビを見ていたら、知り合いが映っていて、びっくりした。それは「ドキュメント72時間密着!東京駅・銀の鈴定番待ち合わせ場所」という番組で、昔福武書店の「モノグラフ高校生」調査という研究チームで一緒に高校生調査をやった友人の明石要一氏と穂坂明徳氏で、大学院時代の友人との待ち合わせで「東京駅・銀の鈴」に来ていた時に、取材されたものである。めったにこの番組をみることはないのに、偶然見て、偶然そこに友人たちが映っているというのは驚きである。
その他、電車で、偶然知り合いにばったり会うことがある。
そのよう遭遇の確率は、ごく低いのに、遭遇が起こるというのは、何か因縁の力が働いているのであろうか。
非科学的なことは信じないたちなので、因縁の力があるとは思わないのだが、何か目に見えない力が働いていると思うことはある。