放送大学東京文京学習センター・自主ゼミ(SEガーデン)

以前に放送大学東京文京学習センターの客員教授をしていた時、毎月2回ほど自主ゼミを開講していた。その自主ゼミは、私が辞めて後も、学生の皆さんが「SEガーデン」というサークルのような形で毎月1回(第2木曜日の15時30分~18時)に、文京学習センターの演習室で開催している(参加自由)。
私もメンバーの一人だが、東京を遠く感じるようになってから、参加は少なくなっている。

今度新しい試みとして読書会のような形式で開くという。読書会の第1回(12月14日)は私の愛読書の1つである江藤淳の『アメリアと私』(講談社、昭和44年)を取り上げるというので、久しぶりに参加する予定。
この本に関して、このブログでも2回(2015年8月11日、2016年2月3日)、言及している。
放送大学のメンバーには、下記のメールを送った。

久しぶりに、12月14日の自主ゼミに参加させていただきます。この頃私は1週間のうちで、働くのは3時間だけ(授業で2コマ)という暇な生活を送っているのですが、たまに頼まれた原稿がなかなか書けなかったり、千葉から出るのが億劫だったりして、なかなか自主ゼミまで足が向きません。
たまに東京に行くと、東京の人は千葉と皆服装が違うなとか、テンションが違うなと感じてしまい、おのぼりさんの心境で、ドキドキします。
今回、私の愛読書の1つを取り上げていただけるということで、御礼申し上げます。ただ、『アメリカと私』は、半世紀前の私の20代の時に読んで感銘を受けた本で、最近読みかえしてみましたら、やはり時代を感じてしまいましたので、皆さんに大丈夫かという心配があります。
それに、江藤淳は少し「くせ」のある人(?)で、好き嫌いが分かれるかもしれません。その人柄をよく知る人(慶応時代の同級生)から、なかなか「付き合いの難しい人」と聞いたこともあります。
思想的には、少し右(保守)寄りりの人かもしれませんが、左の吉本隆明とは気が合い(対談をしている)、大江健三郎とは、最初は同世代で仲よく、後に喧嘩しています。子どもはいなくて、奥さんと仲が良く、奥さんが亡くなって少し経ってから、後を追うように自殺したのが、衝撃的でした。
私は、武蔵大学に勤めていた時、学生向きの講演を頼んだことがあり、一度だけお会いしたことがありますが、気さくな感じの人でした。名刺には、表に江藤淳とだけあり、肩書も何もありませんでした。名刺に名前だけのものをもらったのは、後にも先にもこの時だけで、感激しました。では、自主ゼミの読書会を楽しみにしています。

追記 読書会に向けて最近もう一度読みかえしている。もう50年も前に書かれ、書いた江藤淳もこの世にいないのに、読むとその場(アメリカのプリンストン)にいるような臨場感を味わうことができる。文学の力はすごい。江藤淳の奥さんに対する態度(ジェンダー観)は今からみると古いと感じるが、アメリカの夫婦は孤独ながら、厳しいアメリカの競争社会の中で、夫婦が力を合わせてこそ生き抜くことができる(一人で生きるのはかなり難しい)と書かれているのが印象的あった。(12月9日)

追記2 当日、丁寧なレジメが配布され、内容に即した様々な議論がなされた。
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授業の記録 (12月1日、多文化教育について)

本日(12月1日)の敬愛大学での授業(教育課程論)のリアクション項目と配布資料を掲載しておく。
テキスト(『教育の基礎と展開』の10章を読んでレポートを提出するように課題(宿題)を出しておいた。

教育課程論(12月1日)リアクション  多文化教育について(その1) 
1 井上茂先生(英語の教職について)のお話についての感想
2 前回(ジェンダーと教育)に関する討論の感想
3 テキスト 第10章(多文化共生と教育)で、提言されていること
4  多文化教育のエッセンスは何か(松尾、佐藤参照)
5  なぜ、異民族排斥、ヘイトスピーチが起こるのか(配布プリント参照)
6  なぜ 国際理解が困難なのか、それを克服する方法は(「教育の国際性ってなぜ必要なの」参照)
 次週への課題  佐藤郡衛 「多国籍化する学校」(配布プリント)を読んでくること

英語に関しては、教員採用試験で小学校の免許だけでなく中学校の英語の免許を持っていると採用に有利になる(千葉の小学校の教諭の採用枠に中高の英語の免許を持っているものには別枠の採用がある為)という貴重な情報が提供された。それと同時に教育学の立場からすると、「なぜ英語を学ぶのか」「英語は汎用的な言語(世界共通語)といえるのか。そこに文化的偏りはないのか」なども考える必要があると説明した。
多文化教育や異文化間教育的視点は、単一文化的視点(メルティングポット)や比較文化的視点(旅行アプローチ)とは違い、マイノリティ(弱者)の立場に立ち考えることであること。またマジョリティーも異文化(マイノリティー)とまじわることにより自分達も豊かになるという意識をもつ視点であると説明した。
経済がグローバル化する中で、国を超えた物的人的交流が起こるのは必然であり、他者(当たり前を共有しない人)との関係を築き、「不快さに耐える」ことが必要という論(藤井)を読んでもらい、多文化教育を、理想だけでなく、現実のものとして考える時、どのような問題が出てくるかを説明した。

配布資料
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リアクション&中間レポート
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