若い表現者

今の若い人が、親しい仲間とだけ付き合い内向きで、外国にも行かない留学もしないでと言われているが、そのような中で数少ないが,留学して、世界を舞台に活躍する若い人もいる。
しかし、そのような人に日本の社会は必ずしもあたたかくない。
若い頃インドを長く旅行して外国での苦労をよく知っている藤原新也は、そのような若い人への眼はあたたかい。
氏は、会員制のトークで、「今の身の回りにしか視点を持たない自閉化した日本における若い表現者を見渡してもかなり異例」と、下記のサイトを紹介している。
http://www.shioriito.com/
https://www.instagram.com/shioristreet/

高校、大学(学部)時代の経験の影響

「三つ子の魂百まで」という諺がある。幼い頃の経験や学習で培われたものが一生続くという意味であろう。
幼児期のことよくわからないが、青年期の経験や学習もその後の人生に影響を与えていると思う。特に、高校時代と大学(学部)時代の影響は大きい。
青少年期の3年間過ごした高校の影響は、その人の性格や感受性に表れている。それぞれの高校には歴史や伝統があり、生徒や教師たちが醸し出す風土やチャーター(レッテル)は独自のものがあり、それが思春期の鋭敏な高校生に、知らず知らずに影響を与えている。
 公立高校の出身者と私立高校の出身者では、人の性格や考え方がかなり違う。また同じ都立高でも日比谷と小石川と両国では、校風がかなり違う。都内の私立高校でも、麻布と開成と武蔵では、卒業生の雰囲気が違うなと感じることがある。

 さらに、大学生の時期もまだ成長途中で感受性も敏感な時なので、どの大学で大学生活4年間を送ったのかということも、人の性格や考え方に影響を与えている。
今、大学教育の中身は、どこの大学に行こうと変わらなくなっているかもしれないが、それぞれの大学の持つ雰囲気やチャーター(レッテル)は、各大学でかなり違っている。集まってくる学生の特質も、各大学で違う。特に、特色のある銘柄大学の影響は大きいように思う。
 今、出身大学とは違った大学の大学院に進学する院生も増えているが、大学院生の人格はかなり固まっているのか、その影響力は弱いように感じる。
 日本の企業に就職するのであれば、学部は外国に行っては駄目で、学部は日本の大学で受け、大学院の時に外国に行った方がいい、と言う高等研究者もいる。学部時代を外国で過ごすと、日本独特の場の空気が読めなくなり、日本の企業や社会に適応が難しくなってしまう場合がある。
 逆に、外国の大学を出た方が、日本の旧い因習を打ち破る行動に出る心性が養われ、多くの人が気が付かない日本の悪しき慣習を打ち破ることができるかもしれない。最近のそのよき例が、伊藤詩織『ブラックボックス』(文芸春秋、2,017年10月)かもしれない。

  大学教員の場合は、同じ大学に勤めていても、出身の大学(学部)が勤め先の大学かどうかで、愛校心も違い、学生への接し方も違ってくるように思う。
 私は、上智大学に20年勤め、上智のゼミの学部生や卒業生の集まりに参加した時、学生や卒業生は私を自分の出た大学の教師としてみてくれていることを感じるが、ここにいる唯一私だけが、少し違う者と感じたことがある。出身大学の心理的同一性や絆は強いと感じた。
 大学教師より大学職員の方がその大学の出身者は多く、その大学に愛校心をもち、その大学の為に働き、学生にも親身に接しているという傾向もみられると思う。

(以上は、出身の高校や大学の影響を少し誇張して述べ過ぎたかもしれない。実際は、出身高校や出身大学といった過去の属性よりは、これから何が出来るか何をしようとしているのかという未来での達成能力や達成意欲の方が大切で、人の価値も過去より未来で判断されるべきであることは言うまでもない。ただ、人は過去を引きずる傾向のあることは確かで、そのことを指摘したかった。)

授業の記録(敬愛大学「教育課程論」12月8日)

授業の記録を残しておく。テーマは「多文化教育(その2)」。
前回の松尾知明氏の多文化教育論を復習し、佐藤邦政氏のunlearning論と異文化接触や多文化教育との関連を考えてもらい、バンクス=ビリングスの転換アプローチを説明し、日米の多文化教育的な原爆教育の実践のNHKビデオを観てもらい、多文化教育への理解を深めてもらった。
配布した資料は、前回のリアクションやレポート例も含めるとA3にして7枚になり、量が多すぎて読み切れたかどうかわからない(その点、少し反省. 昔、上智大学で「多文化教育論」の授業を担当した時の内容より盛りだくさんになっている。それは敬愛の授業で授業の内容の質を落とすのは、敬愛の学生に失礼に当たるという思いからだ。その結果は良い方に出るのかどうかはわからない。添付のリアクションからその一部がわかる)
授業の最初に、スマホを見ている学生に2度も注意して、2度目はかなりきつい口調になり、教室の空気が一瞬固まり(?)、どうなるかと思ったが、いつもよりかなり静かな授業となった(スマホを諦め、寝てしまう学生も1~2名いたが)。

教育課程論(12月8日)リアクション  多文化教育について(その2) 
1 前回(12月1日)のリアクションに関する感想
2 テキスト10章の要約(例)を読んでの感想
3  unlearning とは 何か。 異文化理解や多文化教育とどのような関連があるのか
4  転換アプローチ(バンクス、ビリングス)とは、何か。
5  広島・長崎への原爆投下に対する見方を、日本(人)の立場と、アメリカ(人)の立場から書きなさい(転換アプローチの応用問題-NHKビデオを観ての感想)

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“unlearning”について

先の紹介した“unlearning”は有名なことばらしく、いろいろなところで使われている。目についてものを2つ挙げておく。

<unlearningとは、それまでの限られた経験から体得してきたことをいったん解体して、一から組み立て直すことと言えよう。この営みに欠かせないのは、自分と異なる背景や違った価値観を持つ人々、すなわち異質な他者の存在である。大学入学後に高校までとは比べものにならないほど多種多様な人々と出会い、「目から鱗」体験を重ねた人は、少なくないであろう>(日比谷潤子「unlearningめざして―大学の国際化の意義」『IDE現代の高等教育』596号、2017年12月、p9)

<「“unlearning”のすすめ」は、学びの否定ではありません。「すでに学んだこと、とくに悪いことなどを、あえて忘れる」。ここで重要なのは、“unlearn”の前に“learn”がなければならない、という点です。「すでに学んだこと」なしに、「あえて忘れる」などできませんから。つまり「“unlearning”のすすめ」には、大学入学までじっくりと学んできてください、という願いがまずは込められています。
本橋哲也は、“unlearning”の意味を次のように記しています——「学ぶことによって自らの特権を解体し、他者に対する偏見を解きほぐす」。 つまり自分の依って立つところを見つめ直して「他者」との共生を探るような「学び」を、“unlearning”として提唱しています。“unlearning”とは、「違い」とともに生きるための倫理です。(木下 誠http://www.seijo.ac.jp/education/falit/seijo-olumn/05/index.html)

都会のイルミネーション

昨日(5日)、新宿のホテルで開かれた会で、地方の人口減少のことが話題になっていたが、それと対照的に新宿の街には人があふれていた。
また、年末の都会(新宿)のイルミネーションも綺麗。人も少なく店も明かりもない地方から、若い人が明るい都会に魅かれ、移動するのも必然かと感じた。

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