HU高等教育研究センター 公開講演会・シンポジウムの開催案内

さて、来る7月28日(金)に下記の趣旨の通り、HU高等教育研究センター主催の2017年度第1回公開講演会ならびにシンポジウムを開催することになりました。
 総合テーマとして、「学生の超多様化と大学教育―高大接続の視点から」を標榜しておりますが、その趣旨は学生と大学教育の関係を高大接続、学士課程教育の質保証などの観点から議論し、大学教育改革に資すことを目的にしております。
 第1部の公開講演会では、講師の武内清教授に「現代学生の超多様化現象–調査を手掛かりにして」を演題に、ユニバーサル化時代に「超」多様化の段階に到達している学生の実態について、長年手がけられてきた調査を基に実証的に論じていただきます。
 第2部のシンポジウムでは、少なくとも4つのグループに区別できる超多様化した学生に対応した教育が今日の大学教育において必要だと考えられますが、現実の教育実態はどのようなものでしょうか。この問題にシンポジストの事例的なアプローチと解析をお願いしました。各先生は、国立大学、私立大学、高校、あるいはボーダーフリー大学、専門分野などの視点から分析のメスを入れていただきます。
 具体的には、学生が超多様化しているボーダーフリー大学において、学生の質保証は可能なのかを実態を基に分析すること、大学の学部学科を中心に事例的に学生の実態と教育方法の改革を考察して方向を探ること、高校教員が見た生徒の多様化現象は何か、そして大学教育にはどのような学生へ育成することを期待しているのか、といった分析です。これらの分析を通して、現在の多様化した学生に対する教育の問題点と課題は何かを検討し、今後いかなる方向へ教育改革を行うかを提言していただきます。
 皆様にはご多忙中恐縮ですが、大学教育の打開に向けて充実した議論が行われるものと期待されますので、開催の趣旨にご賛同の上、奮ってご出席いただきますと幸甚に存じます。(平成29年6月28日   HU高等教育研究センター長)
http://www.hyogo-dai.ac.jp/research/news/2017/06282029.html

上記の兵庫大学で開催の講演・シンポに所長の有本章先生に呼んでいただき、その準備に追われている。新しいことが何か言えるといいのだが。

藤原新也 写真展 「沖の島」

絵画や写真を見るセンスが私にはない。それは、絵や写真を見る見方について、基礎的なことをこれまでに学んでこなかったせいである。基礎的な教育は何事にも必要である。
最近世界文化遺産登録が決まった「沖の島」についての写真展を藤原新也が、今日(19日)から8月1日まで、日本橋・高島屋で開催している。その招待券が何枚も手元にあり、それを見に行こうかどうか迷っている。
「学期末でいろいろ忙しいな」「私が写真展を見てもそのよさがわからないのではないか」「千葉から東京は遠いな」など、行くのをおし止める気持ちも強い。もう一度、藤原新也の新聞記事を読んで考えよう。(朝日新聞 7月18日夕刊より一部転載)

孤高にして神秘 「沖ノ島 神宿る海の正倉院」展 撮影・藤原新也
通常はなんびとも入ることのできない禁足地。展覧会場では連続する6枚の写真をつなげて幅12メートルの巨大パノラマで紹介する 。知られざる「神の島」の姿を捉えてきた藤原さんに、見どころを聞いた。
 ■自然の共生と秩序
 みそぎをして上陸し、石段を登り、息を切らせながら峠にある第三の鳥居をくぐり、わずか10メートルほど下ったところで、不意に空気が変わります。潮騒が途絶え、風がやむ。それまで聞こえなかった小鳥のさえずりがこだましはじめる。盆地に降り、お社に続く踏み石を見たときに、コケで真っ青になっていて驚かされます。人が入っていない証拠です。
 人間の肺の底には赤子時代に吸った微量の空気が残っていると言われますが、この盆地状の聖地には古代の残気が残っていると感じた。1回目の沖ノ島行きではその残気を撮ったと思う。
 3回目の撮影となる今年5月、限られた神官しか入ることができない場所での撮影を許されました。
 古代から放置された場所だからジャングルみたいになって、鎌でも持って入らなければならないのかと思っていたが、そこには予測だにしない世界が広がっていました。
 あたかも造園師が手を入れたかのようなバランスと秩序がそこに生まれていたからです。人間が一切関知しないということは、逆に自然の共生がおのずと秩序を作り出すのだということをこの目で見た思いがある。この神聖な場所の姿を他者に伝えるには自分の個性というものを殺し、出来るだけ記録に徹しなければならないと思い、そのような撮り方をしました。今回の会場ではその禁足の森とも言うべき世界を12メートルのパノラマで展開します。誰も見ることの出来ないその森の前に立っていただく、ということです。(以下略)