高校調査について

今回の新しい学習指導要領の目玉の一つは、高校教育のカリキュラムの改革と言われている。 それらは、今の高校の実態や高校教師や生徒の実態を反映したものになっているのであろうか。

私は、深谷昌志先生の主幹する調査グループの一員として1,980年から2004年の24年間の長きにわたって、高校の実態をデータで明らかにしてきた(ベネッセ・「モノグラフ高校生」)。
その報告書(全74号)は、今でも下記で全部見られる。
http://berd.benesse.jp/berd/center/open/report/monograph/kou/

その高校調査は、主に高校生を対象にしたものであったが、なかには高校教師を対象にしたもの(Vol 10,28,38,67)や親を対象にしたもの(vol30,40)があり、高校教育を構成する様々な側面をデータで、明らかにしたものである。これらはデータが古くなっているので今は実態が変わっていると思うが、高校改革を考える時、常に実態も踏まえたものであってほしいと思う。 私達も、今ささやかな高校調査を企画していいる。

見田宗介「まなざしの地獄」について

社会学の論文にも後世に残る名論文というものがある。見田宗介「まなざしの地獄」雑誌「展望」(1977年)もその1つである。
私はその論文を昔、社会学や教育社会学のゼミでのテキストの1つによく使い、学生に社会学分析の醍醐味を味わってもらったように思う。
今回、その論文について、朝日新聞の記者が「時代のしるし」という欄で取り上げ、見田宗介へのインタビューもまじえて紹介している(2017年3月22日)
インタビューの中で、見田氏が社会学について、次のように述べているのが印象的であった。
<学生時代のぼくは、集団や社会を抽象的に概念規定したり分類したりするだけの社会学をつまらないと感じていました。社会とは、一人一人の人間たちが野望とか絶望とか愛とか怒りとか孤独とかを持って1回限りの生を生きている、その関係の絡まり合い、ひしめき合いであるはずです。切れば血の出る社会学、〈人生の社会学〉を作りたいと願っていた。>。
以下、朝日新聞(2017年3月22日)より転載。

(時代のしるし)差別社会、若者を絶望させた 見田宗介さん「まなざしの地獄」
ちょっと変わった経緯をたどった論文です。元々は1973年に雑誌「展望」に掲載されて、少数の若い読者の強い共感だけがあるという状態が続いていました。表題作として単行本になったのは35年後、2008年です。それを機に初めて広く読まれるようになりました。
1969年、市民4人を射殺した連続射殺犯として、19歳の少年「N・N」が逮捕されます。永山則夫さん(元死刑囚=97年執行)です。ぼくが衝撃を受けたのは71年、彼の手記『無知の涙』を読んだときでした。
N・Nは地方で極貧の子供時代を送り、中卒で上京しています。手記の表紙には、漢字練習帳の写真が載せられていました。逮捕されたあとに字を覚えようとして何度も何度も字を書きつけたものです。
ぼくも子供時代に貧困を体験し、大学時代は「学生スラム」とあだ名される宿舎にいた。N・Nの言葉に共鳴しました。また、読んでいくうちに「これでぼくが本来やりたかった仕事ができる」とも思いました。
学生時代のぼくは、集団や社会を抽象的に概念規定したり分類したりするだけの社会学をつまらないと感じていました。社会とは、一人一人の人間たちが野望とか絶望とか愛とか怒りとか孤独とかを持って1回限りの生を生きている、その関係の絡まり合い、ひしめき合いであるはずです。切れば血の出る社会学、〈人生の社会学〉を作りたいと願っていた。1人の人生に光を当て、その人が生きている社会の構造の中で徹底的に分析する。その最初のサンプルを提示するつもりで書きました。
N・Nにとって都市は、若者の「安価な労働力」としての面には関心を寄せても、その人が自由への意思や誇りを持って生きようとする人間だという面には関心を寄せない場所でした。また社会には、出身や所属によってその人を差別し排除する構造もありました。「思う通りに理解されない」ことにN・Nは苦しみ、他者のまなざしに沿って自らを変形させていきます。
あのときN・Nを絶望させたのは、彼の出身ではないと思います。絶望させたのは、出身で差別する社会の構造です。
ぼく自身の体験を振り返っても、貧しいこと自体より、「貧しい人間は○○だ」などとレッテルを貼られることのほうがイヤだという感覚が強くあった。社会にあらかじめ用意されている安易な理解の枠組みにあてはめられ、それによってぼくという存在が理解されたかのように扱われてしまう問題です。
「まなざしの地獄」でぼくはN・Nの「精神の鯨」とも呼ぶべき断片を紹介しています。彼が見た夢みたいな話です。
鯨の背の上で大海を漂流している「ぼく」は、飢えて鯨に「君を食べていいかい」と聞きます。鯨は「仕方無いよ」と答え、「ぼく」は鯨をほんの少しだけ、また少しだけと毎日食べていく。3分の1食べたところでひどいことだと気付いて謝るのですが、鯨はもう死んでいた。そのとき「ぼく」は、鯨は自分自身の精神であったということに気付く、という話です。
電通の24歳の女性社員が過労自殺した事件が昨年、注目されました。あのときぼくは、N・Nのこの話を思い出しました。事件自体はもちろん、伝えられる通り、極端な長時間労働で心身が消耗した結果なのでしょう。ぼくが思ったのは、その背後には数え切れないくらいの〈精神の過労自殺〉があるのではないか、ということでした。
現代の情報産業、知的産業、営業部門などで働く若い人たちが、やむをえない必要に追われる中で「仕方無いよ」とつぶやきながら、自分の初心や夢や志をちょっとずつちょっとずつすり減らし、食いつぶしている。そしていつか、自分が何のために生きているのか分からなくなってしまっている。
「まなざしの地獄」は文学なのか、社会学なのか、哲学なのか、と尋ねられてきました。
近代の知のシステムは「文学」とか「社会学」とかいう様々な分類、壁を作って専門分化してきた。こういう壁は音を立てて崩れるときが来ると思っています。そのあとに現れる「人間学」のようなもの。その一環としてこの仕事が読まれる時代が来るといいな、と思っています。(聞き手=編集委員・塩倉裕)
みた・むねすけ 1937年生まれ。社会学者。東京大学名誉教授。自由で持続可能な社会の可能性を理論的に提示した『現代社会の理論』や、真木悠介名義の『気流の鳴る音』などで知られる。人間の解放や幸福を希求する感性と透徹した論理性が共存する独特の著作で多くのファンを持つ。朝日新聞で80年代に連載した「論壇時評」も注目を集めた。
■「まなざしの地獄」(1973年)
貧困の底から中卒で上京した少年(永山則夫元死刑囚)が市民4人を射殺した事件に向き合い、自由な存在であろうと願いながら果たせなかった一少年の実存を当時の社会構造に位置づけた名論文。少年の手記や社会統計の分析を通じて論考は、人を出自などで差別する都市のまなざしと、それを生み出す人々の「原罪性」に迫る。移民排斥問題に揺れる現代にも示唆的だ。73年発表。2008年、表題作として単行本化。

映画こと(その2)

先日観た映画「ラ・ラ・ランド」の隣の映画館では、ちょうど「チア・ダン」やっていた。こちらの評判も新聞で読んでいたが、年寄りひとりで入るのは恥ずかしく、敬遠した。同世代のK先生から下記のメールをいただき、こちらを見た方がよかったなと、後悔した。

<「ラ・ラ・ランド」は私も見ましたが、「サウンドオブミュージック」のような感動はなく、正直、期待はずれでした。私はいわゆる青春ドラマに感動するのですが、最近みた「チア・ダン」とか「ちはやふる(前後編)」、さらには「のだめカンタービレ」(最終楽章のみ映画館、あとはDVD12巻—浮間船渡駅前のブックオフで一括購入)などに感動(しました)。
「チア・ダン」は上映中なので既にご覧かもしれませんが、客席は若い女性で一杯、最後の山場に近づくと感動のすすり泣きで館内は満たされて教育学的に得難い体験をしました。ご参考までに;http://ciatr.jp/topics/183044>

敬愛大学卒業式、パーティ

昨日(3月23日)、敬愛大学の卒業式と卒業パーティがあった。私は4年生のゼミは担当していないのでゼミの卒業生はいなかったが、こども学科の学生は1年次、2年次の時に担当し、ゼミも担当したので、顔も知りの学生も多く、4年間で大きく成長し、社会に羽ばたく未来を祝福した。
専任として敬愛大学に勤めるもの最後で、花束をいただいた。

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読書2-黒沼ユリ子『メキシコの輝き』を読む

今日は、黒沼ユリ子『メキシコの輝きーコヨアカンに暮らしてー』(岩波新書,1989年)を読んだ。
文章がとても読みやすく、内容も興味深く、2時間もかからず新書226頁の本を読み終えた。
村上春樹の小説を読み終えるのに数日かかったのに比べ、とても楽で、これはどこから来るのであろうかと思った。
小説に比べ評論や随筆の方が読みやすいのであろうかあろうか。これまで逆だと思っていた。あるいは、村上春樹の文体が読みにくく、黒沼ユリ子の文体が読みやすいのであろうか。

黒沼ユリ子は「自分が何かに感動したり、怒りをおぼえたりすると、どうしても、それを第3者に伝えたり、解ってもらったりしたくなってしまう」という動機から、自分の感動したメキシコの文化、壁画家、子ども為のバイオリン学校等について、いい文章で書いている。もともと文才のある人のようだ。
メキシコでは、今を生きるということが大切で、人と過去にかわした約束もその時に時間通りに果たせなくても気にしないなどの、日本との文化的差異は面白いと思った。
メキシコについては、昔社会学者の見田宗介や他の研究者の滞在記を読んで、魅力的な国だなと思ったことがある。
黒岩ユリ子のバイオリンや子どもの為の音楽教室に関しては、音楽的なセンスのない私にはよくわからないが、その周辺の文化的な部分に関しては、もう少し興味をもって、読んでみたい。